まだ「ひと」というなはありません。なぜならことばがないからです。
みんなはひとつでした。あらそいもなく、せんそうもなく、ぶきもなく。
みんなびょうどうで、なかよしでした。
いつしかいきものはぶんきし、やがておなかがすいてきました。
もうひとつではないので、たべものはあるいきものがたべてもびょうどうにいきわたりません。
けれどおなかはぐうとなります。






// D N A

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「……あなたが、お母様?」
「そう、私が。あなたの『お母様』よ」
記憶は此処で途切れている。私は彼女の言葉の先を知ることはない。
もはや今となっては過去の過去。土の下。墓の下。










「ラクス」
カチンと、キラはコーヒーカップを受け皿に些か乱暴に置いた。
声もどことなく苛付いていた。
「はい……?」
真正面の椅子に腰掛けるラクスは相反するように、彼女は不気味なほど落ち着いていた。
人知れぬ山中の湖水の如く静けさ、乱すものは舞い落ちる枯葉のみ。
超然とした態度ながらけれど顔色は悪く、淡い桃色の頬が今では心なしか青ざめて見える。

「最近、とても良く君は魘されてるみたいだけど」
回りくどさは除外して、キラは急いて核心に切り込んだ。言いようのない憤りに波立つ心がそうさせる。
「そんなことはありませんよ」
ラクスは自然に、とてもあたかもそれこそが事実のように偽り、静かに紅茶を口につけた。
瞬く間に、眼光の鋭さをたたえるキラの目が不愉快気に細められる。
「嘘だ。ラクスは毎晩毎晩誰かに謝罪してる。誰に?一体君がどうして?」
彼女と共に就寝する時も、そうでないときも。彼女の変調を認めたのはつい最近になってからだ。
いつもいつも涙を滲ませ、腕に縋るラクスは別人のように弱弱しい。
それこそ触れれば折れてしまいそうな儚い姿に、キラは既に恐怖と怒りと悲哀の精神的に堪える限度を越えていた。
毎夜毎夜、彼女が居なくなりはしないかと、今では小さな救いを求める声にも反応しては彼女の傍で震える手を握り続ける
日々が続いている。
だというのに、「心当たりなどありません」
素知らぬ風にあしらう彼女。一層キラの険が深まった。

「君が本当に覚えていないというのなら、いいよ。でも気付いてるんだろう?」
「何をですか」
空ろな青の瞳は平然とキラを見遣った。唇は紅をはえて尚血色は悪く、小刻みに震えている。
本当は分かっているのだろう?
だがラクスが認めないことには幾ら追い詰めても栓のないことだ。
しかし言い募ることを止められない。彼女という名の理想が、勝手な思慕なのかもしれない。
けれどラクスの闇の中に生える葦のような姿はキラにどうしようもなく苦渋を強いた。
本来の姿ではないはずだ。彼女は凛として気高い。
いつでも何の脅威にも負けず、僕の隣で前だけを見つめている。
そして時に人々を癒す音色を奏で、花にのせて優しさと幸福が降り注ぐようにと舞い続ける。
彼女はそういう人だ。そのはずだ。
奇妙なほど盲信するラクス・クラインという人間が、こんなにも傍にいるというのに、
今では遠い、遥か彼方に佇んでいるようだ。
キラは許せなかった。自分は離れていく彼女を遠くで見つめているだけだろうか?

「僕は君の傍にもう1年以上いる。ずっとだ。君をいつも見ている。なのに気付かないはずがない」
否。それだけでは嫌なのだ。
立ち上がり拍子にカタンと椅子が倒れる。
キラは丸テーブルの弧に沿うよう身を滑らせた。
許しを乞う騎士のように椅子に腰掛ける彼女の前に跪き、微弱に揺らぐ手の上に手を重ねた。
毎夜ラクスにするように、凍える彼女の体から、温度が逃げてしまわぬように。
「僕はいつでも君の傍に居るよ。だから我侭でもずっと居たい。誰よりも傍に。
肉体だけの距離じゃ物足りない。心もだ。ずっとずっと………隣にいたい。だから」
そこまで一気に言い切ると、キラは俯いた。自信はない。
嘘臭いのやもしれない。そうでないのかもしれない。
またどこかにラクスにこうすることで別の思惑が自分にはあって、あるかもしれない浅ましい思いが彼女の
澄んだ瞳には見透かされているのかも。自信がない。
けれど手は握り締めたまま。
不安そのままにふいに力を込めると、ラクスの肩がぴくりと跳ね上がった。
首を下げたキラには分からない。
「だから君の辛さを少しでも分かち合いたい。全ては無理かもしれないけど、でも僕にも少しだけ…分けて」
しばしの間訪れる沈黙に、キラは何かが裁かれる思いがする。
ここで拒絶されれば、僕はどうすればいいのだろう。
やがて、ようやくラクスの唇が僅かに動いた。虫の音の吐息が漏れる。

「今夜……、言いますわ。ですから」
キラは微笑みかけた。嗚咽をもらす彼女の背中をさする。
父のような恋人のような母のような、何者でもないような慈愛の篭った紫の瞳。
「……ゆっくりでいいよ」
ラクスは頷いた。頷くことで、勇気を奮い立たせた。
「ですからっ、今は…!」
「…………分かった」
振り絞った声音の末尾の伝達を待たず、キラはラクスを抱きしめた。
夢うつつではなく、紛れもない現実の中で二度目だ―――――どこか自身を戒めるような咎めるような、
甘え方を知らぬ彼女が、自らキラの胸に飛び込んだ。
「キラ、キラ……!」
キラの腕の中で、ラクスは寒さに凍る兎のように震える。
予感が、いや確信が彼女を脅かす。

「彼女が、来ます」







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