コゼットは幸福だった。 当時は比喩しようながいほど紛れもない幸福に、今になって後悔してしまうほど頭から爪先まで無邪気に包まっていた。 その醜さの影など露も知らずに。 Le Portrate de Petit Cossette / 5-2 「マルチェロ。お母様から、そろそろ休憩のお呼びがかかりそうですわ」 「そぉ、だね。でも、あと、あとちょっと………」 「うん…」コゼットは、モデルとしてのお勤めを続行しながら、口元だけ綻ばせた。 母が淹れてくれる、紅茶の匂い。 母がレンガ釜から取り出すのは、表面に少し焼けて狐色に黒が彩りを添え始めた頃で、洋梨ケーキの焼け具合は、マルチェロに与えれた自室に舞い込む風が、油性に混じった控えめな香ばしさを鼻腔に届けて、コゼットに教えてくれていた。 マルチェロは会話を交わしながらも手を休めず、デッサンを続けている。 コゼットも心得たもので、抵抗はなくなっていた。 サ、ササ、サ、サササ。 「今度は、花嫁の絵でも描こうかな?」 「だめ。お母様が卒倒してしまいますわ…」 「まずは、願い出が先かな」 「ふふふ」 マルチェロの筆の速さは不規則で、静寂の室内でベットに身じろぎせず座るコゼットは、首を少し上げた格好でありながら時折目だけ、彼へと向けては満足してまた天井を見つめる。 彼の亜麻色の髪が、微風に揺れていた。 永遠に続くだろうと錯覚した幸せがそこにはあった。 * * * それは、優しい夢であった。 砂糖菓子で出来たような、王国。 * * * ザァアア……。 潮騒が引いていく感覚に、水底深く沈んでいたコゼットは意識を浮上させられ、全く眠気を後尾引かさずぱちりと一気に目蓋を開いた。 真っ赤な床に横たわった彼女が、ガラス玉のように澄んだ蒼い円が移したのは、光が差すどころか光まで打ち消してしまいそうなほど、粘性を含有したどこまでも広がる、際限のない青空の変わりに供与され続ける暗闇。絶望を飛び越えた絶望の世界であった。 床には薄墨桜の長く、緩く波がかかった髪が広がっている。 夢は、間違いなく優しかった。 しかしそれは時に、人の優しさと同じようにどんな猛毒よりも性質が悪いことがある。 そしてコゼットにとっては、夢こそが、死に至る毒であり、永劫に患い続けるかも知れぬ病であった。優しい一時は残酷でしかない。 身を切り刻まれる恐怖を味わう世界が『現』であると気づかされ、絶望するその瞬間こそが、何よりもコゼットを苦しめた。そうであったから、現の方が、よほど甘く、天国のようであった。 いまや、幸せは嫌いだった。 きらい、嫌いだ。大嫌い。 地獄という定義は、コゼットにはない。 二百五十年もの間、一人置き去りにされ、地獄以上の地獄がないというまで過酷な地獄で味わう苦痛を、夢から開放されたと彼女は歓喜して望んだ。 狂気に泣き喚いてもおかしくはない地獄において一粒だけ涙を流した時から、地獄は日常と化し、そして夢と現実の格差に、感覚がモルヒネを過剰投与したかのように麻痺し、中毒症となっていた。地獄は彼女にとり、幸福である。 よって地獄より下の地獄がない以上は、彼女にとっては地獄足り得ないのである。 気の毒だと労りをかける者も地獄には存在しないため、比較対象を失っているコゼットは自分が一般にどのような存在であるか、理解することすらできなかった。 底辺の底辺を味わい、絶望の闇で視界を開いたコゼットは、目を見開き続ける。 痛みと恐怖に疲れ果てて目を瞑ってしまえば、幸福であったはずの箱庭が彼女を陰鬱な気分に貶めるから。 そして夢を見るたび…この世で一番会いたくない青年と会うたびに、この世で一番会いたい青年だと自覚させられるからである。 認めたくはなかった。 彼女の矜持にかけて、認めるわけにはいかなかったのだ。 そうしなければ、何かが。自分の中の何かが、終わってしまうと思っていた。 安楽への欲に似たような儚いものであることは、不思議と分かる。 「キラ」 コゼットは、また頬を傷つける秒針に翻弄されながら、血の契約を交わした青年を、無表情に呼んだ。 「たすけて」 熟れた果実のように瑞々しい唇が甘い声を紡ぐため、縦横、左右に動く度、唾液に濡れた紅い舌がちろりと覗いた。 「たすけて。―――――…キラ」 鼻をつくような鉄分の臭気が、周囲を酸素の如く赤霧となり沈殿している。 コゼットは惜しげもなく全身の肌を晒していたが、唯一頭と少しばかり顔を覆う花嫁の白いヴェールレースだけが、ささやかながら鼻筋あたりまで飾っている。 コゼットは笑みを刻んだ。 彼女が助けを呼んだ途端に男の足音が、聞こえていたからである。 私に会いたいと言っている。必死になって、私を探し回る焦りが滲んだ、忙しない上に美しくない音が、鼓膜を打った。 コゼットは仰向けのまま、一滴、涙を流して微笑んだ。 やはり夢は、嫌いなまま終わりそうだ。そう思った。 next |