しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか。


/夏目漱石「こころ」








Le Portrate de Petit Cossette / 6-1










都心から僅かに奥まった郊外に、ミリアリア曰く『成金富豪』は、豊かな自然や庭園が大半を占める邸宅を構えている。
厳重な警備の網の目が張り巡らされている上に、敷地を囲う巨大な白塀を昼間見上げたキラは、あまりの警戒のしように戦国時代の要塞を連想したものだ。
この要塞には二つの守り門がある。
まず、道路に面する第一の門。
そして、広大な私有地に植わった森林の奥深く、邸宅を守るよう―――フレーム内部の複雑な形状に薔薇の蔦が絡んだ、彼の身長の三倍はあろうかという―――第二の門である。
訪問者を威圧するように迎える傲慢さは、この家主そのものを体言しているようだ。

時刻は深夜にも関わらず、キラを迎え入れるかのように、第一の門は口を開けていた。
招きよせられる感覚に従い、ハンドルを握ったまま第一の門を抜けて長い私道を走り、第二の門前まで車をつけ、アスファルトに降り立つ。
これほど易々と進入を許しているところをみればセキュリティ関連の電源が落とされていると
判断した方がいいだろう。
見上げた邸宅の一階から上の電気は、全て消灯されているらしくこちらを向いた窓全てが黒く塗りつぶされている。
確実に、何かが起きていた。
キラはしかし、惑わなかった。
今はどうでもいい。心のままに、進むしかない。彼女が求めるならば。

無言のまま足を一歩進めたキラは、門に手をかけたところでふいに踏みとどまった。
今すぐ彼女の元へと走り出したい気持ちを抑制し、背後へと目を向けた。
私有地内を一直線に通った私道は供給する電気すら落とされているのか、灯一つ燈っておらず、木々により齎された闇路となり徒歩であれば、足元すら覚束なかったに違いない。

だが、気配があった。出現したといっていい。
誰かが、キラの後方に存在する。
少なくとも、通過した直線道路、人の姿はなかった。
夜に乗じて森に身を潜めていたのであれば勘付かなかったことにも頷けるが、
『普段』であれば、この厳重な警備網の敷かれた敷地に立ち入ることすら困難なはずだ。現に昼間に訪れたキラは、入念すぎるような検査を受け、初門で車体登録までさせられ第二の門で認証されなければ通されなかったのである。
『異変』は、おそらく数時間以内…キラが到着した時点を皮切りに発生したのかもしれない、とにかく常人に予測できるものではない。キラ自身が、一番よく知っていた。
ゲストであるが故に。
残りの半回転をし、門に背を向ける。
「……誰だ?」
キラは無表情のまま声をかけると、闇からボーイソプラノの声が返った。
「…………あんたが」
男としては幼すぎる声。
子供か?
月の寵愛を受ける葉のささやかな残光が舞い散るのみでは、人相を確かめるほどの光量はないが、点灯したままのカーライトが大きく助力し、半径1.5m辺りまでは視界が確保されている。確認できない以上、少年と思しき人物との開きは少なくとも1.5m以上の距離がある。
声の発生源を頼りに、身体の自由が完璧に利くテリトリーぎりぎりにまで歩いて止まると、言った。

「誰だ。僕からは見えないけど、今は暇じゃない。用件は早く言ってくれ」
「…あんたが、呼ばれてきたのか」

死んだような静寂に、生気が生まれた。
アスファルトを叩く乾いた足音が、こちらへと向かってくる。
キラは背にするカーライト前に自分が立つことで、照射距離が削られていることに思い当たり、横へと身を滑らせた。
伸びた光の筋上に、小さめのスニーカーが見えた。大人ほどシンプルなデザインでもないが、男物だ。上へと目線を伝うと、黒の褪せたジーンズ。そして、上半身は白のパーカー…
についたキャップを頭から被っている。足元から臍までは形状・色彩等視認できるものの、
ローライトのため、表情までは伺えなかったが、だが、少年はそうでもないらしい。
夜の猫のように輝く一対の赤い瞳が、一直線にこちらを値踏みでもするように見つめている。

「…君は……?」
ぼんやりとした背格好から判断しても、中学生になったばかりか、またはその下かといった年齢であろう。
だが、前髪の合間からキラを射る瞳は、容姿の幼さを完全に裏切っている。
瞳は業火のようであるのに、浮かんでいるのは荒涼とした、冷めきった色合いから伝わるのは、深い悲哀。
「君は…だれ」
「ぷはっ」
少年が、肩を揺らす。
愉悦からの笑いに、喉をくつくつと鳴らしている。
「もうすぐだ。もうすぐ。あんた、せいぜい…楽しんでくるといいよ」
闇に栄える真っ白な歯を見せ、酷薄に笑んだ少年はそれだけ言い終えると、ジーンズポケットに手をつっこみ軽く揃えた左手の5指を、
左に振り、右に戻した瞬間に、姿はなかった。
影も気配も、完全に消失する。
(っ…!消えた…?)
首をめぐらして少年を探すも、もはや髪一筋すら、発見できない。
あの少年の言葉は、一体…。
思案しようと目を細めたキラの耳が、ギギィイ…という悲鳴を聞きつける。
振り返ると、歓迎の意を表してか、閉鎖されていたはずの鉄門が開放されていく。

『呼ばれてきたのか』

―――あの少年が指していたのは、やはり…コゼットであったのだろうか。
…コゼット!
(そうだ)
今はともかく、彼女の元へ急がなければならない。
思考をすぐさま切り替え、鉄門を抜けて屋敷玄関前へと向かうと、少年と会話する前、降り立ったばかりに肌を弄った違和感が息を吹き返し、増していく。
いくら夜とはいえ、静かすぎる。
人が住む屋敷というのは、例え住民が不在であっても、睡眠していてもそれとなく人の気配を感じさせる空気が漂うものだ。
それは身奇麗小汚いに関係なしに何処からかにじみ出る、生活感。
昼間、キュリオケースをこの屋敷に配達した時分には確かにその空気は存在していた。
だが、現在階上の明かりが一切消えた闇に埋もれる屋敷・電源が落ちた敷地からは、扉前にいるキラにすら、人の匂いを連想することはできない。
昼までみなぎっていた精気が、一斉に削げ落とされ、数時間のうちにあたかもうち捨てられた廃墟にすり替えられたようだ。
「っ」
ある感覚が、キラの胸の湖面を弾いた。微弱な雷が一瞬にして身体を走る。
「っあ!?」
脳裏に、『き』という字、ひらがながふわりと浮き上がった。音声がついている。
甘く、歯が虫歯になりそうな声。
背景は黒、字は白、エンボス。やがて、広がる水の波紋が単語を吐き出す。
今度は『た』。
「き、た?」
意味を為す言葉を精製していく。彼でない誰かが、イメージとして紡いでいく。
一字一字がばらばらに並んだそれ一字では意味のない字の糸を回転させ、一字一字をより合わせ、指で纏め、文に、収束し、ばらばらから、収束し、ばらばらから、収束し、ばらばらから、収束し、
ばらばらから、
「やめろ」
収束し、
ばらばらからばらばらにばらばらばらばらバラバラ薔薇ばら
ばらばらからばらばらにばらばらばらばらバラバラ薔薇ばらばらばらからばらばらにばらばらばらばらバラバラ薔薇ばら
「ぅあ」
無邪気な優しさから脳へ叩き込まれる思念の奔流に、脳漿を弄られるような気持ち悪さに、ついに膝を折れた。
上体が前へと傾げ、閉ざされた扉に頭がぶちあたり背中から為すすべなく倒れた。
「ぐぅぁあぁぁぅ」
床に転がりまわり獣の如く呻いた。
頭をがりがりと爪で掻き毟り、紛れもない直接的な殺意から逃げ出そうとを追い出そうとのたうつ。
跳ね回った床の後には髪の毛が散った。
人間であることすら忘却の彼方へと霧散してしまいそうなほどの思考の欠如、苦痛、悲しみ、恐怖が肉を腐らせ、爛れさせ、それが現実なのか妄想なのか分からないが、強烈な腐臭が鼻をつかんばかりに増長する。
「っちっくっうぅ、しょ、あ、っぅぅぅ…」
地獄のような苛みの中で、徐々に意識が薄れていくのを感じる。自分がよく分からなくなっていく。
抵抗が弱まり、決壊して雪崩れ込んでくる、殺到する。
…気持ちが悪い。
意識が途絶える刹那。誰かが喚き叫んだ言葉に、咄嗟、
「ふ、ざけ…ん…な………」
反発するも、容赦なく、キラは闇に落ちた。






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