彼というひとについての、最も鮮烈な記憶は油性絵の具の匂い。 木目が見えないくらいに色という色で塗装された、パレット。 Le Portrate de Petit Cossette / 5-1 両親に囲まれて、初めて。 初めて彼と出会った時、少女はその蒼い瞳が零れんばかりに見開いて口までもあんぐりと開いてしまったために、慌てて口元に隠すように手を添えた。 もしかしたら絵本から抜け出てきたような王子様ではないかと、コゼットは疑ったのだ。 すぐに我に返り、打ち消したが。 「紹介するわねコゼット。彼が、今日から家にしばらく下宿することになった、画家のマルチェロ・オルランドよ」 「初めまして。コゼット・ドーヴェルニュ」 まだ二十歳には達していないだろう…あどけなさが残る顔立ちの青年は、柔らかに微笑をたたえながら浅く腰掛けていた木箱から立ち上がり、軽く会釈をした。 「は、はじめ、まして…」 「あらあら。どうしたのコゼット」 なぜか気恥ずかしくなったコゼットは、すす、と母の後ろへと引き込んでしまう。 いつもは誰とでもすぐに打ち解ける懐っこい娘の珍しい所作に、母は少しばかり驚いているようだった。コゼット自身も、無礼であると自覚したが、どうしてもドレスをつまんで礼を交わす気にはなれない。 正確を期するならば、王子様に出会って動揺していた為に余計無礼を働くのではないか。などと臆病風を吹かせていたのである。 「不思議ですね、コゼットとは、僕。どこかで会った事があるような気がするんですよ…なぜでしょう」 「あらマルチェロ。この小娘を口説くには、まだ早すぎますわ」 「お、お母様!!」 背後に回ったまま、コゼットは母のドレスを引っ張って抗議する。 冗談と受け取っているのかそうではないのか、なんとも返答せぬまま笑うマルチェロを、コゼットは母が正面で手を組んでいる為に生まれた腕と腰の隙間から覗いている。 「しかし…本当に、綺麗だ。コゼットは。まるでお人形のよう」 紫を細め、妙な所からこちらを監視している少女に目をやる。 予期せず、コゼットと彼の視線が鉢あうと同時に、マルチェロはただでさえ甘いマスクに、蜂蜜を蕩かせた。コゼットの感覚では眩く火花が散りったので、彼女は顔を一気に真っ赤にして、顔を反らす。今も視線が突き刺さってくる。 青年がので、このまま致死量に何かが達して、死んでしまうのではないだろうか。 「お、おかあさま…どうして、あの、マルチェロ画伯は、家に?」 しばらく下宿するというのならば、なんらかの用件があるということだ。 父が絵画が好きで、自画像もよく描かせているが、専属絵師は既にドーヴェルニュ家にはついている。白髪を蓄えた、コゼットにとって親しみ深い祖父のような存在の絵師である。 祖父を解雇でもしてしまうのだろうか、とも心配になったが、実際彼女の頭を占めていたのは、いつまで自分がこうして動揺し続けなければならないのかという、不可解な心配だった。 「ああ。そうね、まだ話していなかったわ。マルチェロ。貴方からお話くださいな。私は、夫から昨日話を聞いたばかりだから」 「分かりました。僕も、直接彼女に話そうと思っていたんです」 お父様も知っていたの?では、弟も知っていたのだろうか。 私だけ、仲間はずれ? コゼットは母のドレスを握りしめて複雑な気分に耽っていると、ふと彼女の白磁の横顔に影が落ち、不思議に思ったコゼットが顔を向けると、心臓が飛び出しそうになった。 マルチェロがいつの間にか母の正面から移動し、母の後ろに隠れるコゼットのすぐ隣に腰を折ってしゃがんでいたのである。 「きゃぁ!?」 「驚かせちゃったかな」 膝に肘をのせて頬杖付き、小首を傾げて悲しそうな顔をしたので、コゼットはぶんぶん顔を、桜色の髪が乱れるほど左右に振った。 「そうか。よかった」 「う、うん…じゃなくて…ええと、はい」 「うん、でいいよ。それでね、話っていうのは…」 青年は一撃必殺の会心の笑みを浮かべて言った。 コゼットはこの10秒後、しばらく愕然とする羽目となる。 「コゼット。君の絵を、是非描かせてもらいたいんだ」 コゼットは、先ほどの動揺したくないから用事を済ませて速く帰ってほしい、と抱いた期待を大幅に裏切る展開に凍りつく。 「ね。嬉しいでしょコゼット。私も嬉しいわ。マルチェロの描く絵はとても綺麗で、とっても楽しみ」 母は娘の思いなど露知らず、暢気に歓喜する。 おまけに娘の知らぬ間に勝手に合意していたらしく、 「コゼット。ご依頼、お受けするわよね?」 空気は、是か非か、という段階ではなく、もはや決定事項であり、念押しでしかないということが、コゼットには青年の微苦笑が物語っているように思えた。 彼も、まさかモデルが、今回の依頼を小耳に挟んでもいなかったとは考えてもいなかったようで複雑そうではあるが、コゼットに向ける真摯な瞳からは妥協する気を持ち合わせない、確固たる意志が感じられた。 解凍されたコゼットは、当たり前のように首を横に振ろうと思っていたのだが、母はともかく青年の情熱により躊躇が生まれ、NOの頭文字、N、N、Nを彷徨い、しばらく口をぱくぱくと開閉していたが段々と驚愕と怒気と困窮に染められた大きな瞳は伏せられていき、遂には小さな溜息と共に、コゼットは母の服裾を握りなおして、囁くように呟いた。 「よろしく、おねがいします…」 コゼットの掠れた声を気に留めるでもなく、コゼットの目下につくためにしゃがんでいた体勢から、うやうやしく片膝をついた。青年は、彼女の白い手を取り、甲に唇を押し当てる。 「こちらこそ」 口付けられたコゼットは、当時では珍しくもない挨拶でありながら、恐慌状態に陥り 手の甲に体中の神経が集結して青年の感触を感じ取ろうとしているかのように、肌が総毛だった。先ほどまでも熱かった頬が殊更に体温を上げて、コゼットは次々と体に起こる大異変に慄きながら唇を噛む。 この人といると、私は、いつか心臓がどうにかなって死んでしまうのではなかろうか。 目を強く瞑り、コゼットは今後青年によって、自らに降りかかるだろう多難を考えて少し泣きたくなった。 青年が微笑む気配がして、不可解な恥ずかしさに涙が滲む始末である。 →5-2 |