Le Portrate de Petit Cossette / 3 ミリアリアの眉間に、つうと不愉快なものが流れた。気に入っているTシャツが、背中部分だけ色が濃くなっていそうな予感をしつつも、とうとう彼女は口を開いた。 「キラー…。マジで、ほんっっとに………暑くない?」 「……うん…暑い…。マジで、暑いね」 二人は太陽が燦燦と降り注ぐ蒸し暑い陽光により車内で蒸し焼きにされるような感覚に陥りながら、ミリアリア運転する春蘭堂・輸送用軽トラックに揺られ、アンティーク品であるキュリオケースを輸送途中であった。 貨物台には梱包されたそれが紐でしっかりと縛り付けられている。ミリアリアとなんとか、落下しない程度には固定できたはずであるが、たまに荷台で何かがぶつかるような音がしていたが、二人は無視していた。万が一と、クッションは詰めすぎるほど敷き詰めておいたのだ。硝子が割れでもしない限りは問題なかろうし、些細な傷に気が回るほど、あの富豪の目が卓越しているとは思わない。 「それにしても、なんて利かないクーラーだよ」 「叔父さんにいっといてよ。今度から、せめてもうちょっとランク上の車買えって」 「うん…念押ししとくよ」 山奥へ続く舗装の悪い道に身を激しく揺さぶられながら聞く蝉の声は格別に嫌悪感を高めてくれるばかりで、助手席から、利きもしないクーラーを何度もいじるキラ。 店主は変なところでケチるために、廉価ものの軽トラだとは分かっている。実際、尻の下にあるエンジンが発熱し、グリル上の魚といった気分だった。 「それにしても、あの成金オヤジのとこいくなんて、ロクなことなさそう…」 「まあ…仕方が無いよ。てか、ミリアリアがあの人つれてきたんじゃないか」 「あーあはは。だって、しょうがないじゃない〜…こっちにも色々事情があんのよ」 口を挟むと五万倍は報復されそうだと、長い付き合いで学んでいたので、それ以上首を突っ込むことはやめた。口下手なキラは、ミリアリアとのコミュニケーションにおいては、誠に賢明である。逆に口を挟んでばかりで、鬱陶しがられているディアッカは、理解しながらも無茶無謀で突っ走る彼女を心配する故であろうが…気持ちはよく分かる。確かに、ミリアリアは行動力が溢れすぎてどこか危なっかしい。その分、逞しいのも魅力の一つではあるのだろうが、度がすぎている気がしないでもない。 「しっかも、愛人への贈り物よ?最悪ね。あーあ…いっそ、あのオヤジが自分で運べってのよ。無駄にでかい図体、たまにはフル活用しなさいっての。まさか筋肉ムキムキじゃあるまいし」 (ディアッカ、またフラれそうとかいってたな…) 毒舌を聞き流しながら、キラは内心で頑張れ、と同情交じりにエールを送っておいた。あの二人、何度別れてはよりを戻しているのだろうか。 「でも料金分は、働かないと。一応さ」 「OKOK〜。でも、約束どおり、紹介料として昼ごはんは奢ってよねっ。ハンバーグ!」 「はいはい。分かってるって」 「それでこそ、真の友人!」 「随分都合のいい友人だね…」 「なぁによ。伝は、使ってなんぼよ」 軽妙に会話をしながらもキラは正直、ミリアリアと同様、行き先が行き先だけに、あまり気乗りはしていない。 会話がしばし途切れてから、ミリアリアは、「あ」と思いついたように声をあげた。 首を傾け、キラに言葉を投げる。 「そういえば…あの絵の、『コゼットの肖像』の裏にサインしてあった、『マルチェロ・オルランド』。どっかで名前、みたことあるなあと思ってたら、やっぱり見たはずよ。私が教授から借りてた、古い文献にのってたわ」 助手席の足元に文献置いてあるから、という彼女の促しにキラは躊躇を混ぜながらも、やはり――手を伸ばした。 あの惨劇の夢を見て以来、彼女は姿を消した。やはり異常な事だったのか、グラスの中に生きる少女に恋することなど。関わりを持つべきではない、それでいいのだと理性は口を揃えて並べるというのに、沸き立つ衝動は歩み寄る道、相反する行動へと彼を誘った。 少し、少し触れるだけだ。そう自身を無理やり納得させるとすぐさまキラは分厚い文献を膝にのせ、付箋の貼られたページを開いた。 再び、少女の深みに沈んでいく恐怖を自覚しながらも、彼のマルチェロの経歴を辿る視線は、あまりに熱が篭る。 「…生年月日不詳。18世紀のイタリア人画家。 人物画に才能を発揮し、フランスにおいても名家の1つに数えられる、ドーヴェルニュ家に…」 「そのマルチェロなんとかって人の、あの絵…えーと、『コゼットの肖像』が最後の作品だったんだって。で、その後は失踪しちゃったらしいわー。勿体無い」 『勿体無い』…確かにその表現が相応しいだろう。 キラは他の作品―――掲載されているデッサンや絵画を見つめながら、油彩絵の繊細なタッチや構図の秀逸さ、雰囲気を忍ばせる目を惹きつける鮮やかな色彩―――その才能に感嘆せずにはいられない。キラ自身美大生であり、教授に薦められ人物画を出品した展覧会においても数々の賞を獲得している、才能ある人物である。彼の観察眼を否定する者は、そういない。 没落した鬼才の画家など、過去吐いて捨てるほど存在する。当時価値が見出されず、没後ようやく再評価された不運なケースも数多い。描き続けれいれば、マルチェロ・オルランドなる人物が大成する可能性は十分にあっただろう。そして何より、キュリオケースの中にあった、『あの少女』の肖像画……『コゼットの肖像』は、正に写実。彼女の優しげな雰囲気、キラ自身が逢瀬時に実感していたチャームポイントまで、卓越した腕により緻密に描き出されていた。 「…にしても、あの絵の裏のサイン。意味深よね。『コゼット・ドーヴェルニュへ 愛を込めて マルチェロ・オルランド』、なんて。フィアンセだったのかしらね?結構、年は離れていそうだけど…」 訝しげに首を傾げるミリアリアに、キラは一人助手席で曖昧な笑顔を浮かべた。 悪夢が、瞬間脳裏に過ぎったが、悪夢を現実と捉えるのはあまりにもバカげている。 「そうだね…」 利きの悪いクーラーの生ぬるい風に頬を弄られながら、キラは、肖像画に描かれた少女の笑顔を思い出し、焼け付くような不可解な痛みに口元を歪ませた。 あのような心からの笑顔を、僕はまだ、見たことがない。だが彼には、見せるのか。 明確にそれは嫉妬だと、栓のない怒りであるとキラは理解しながらも、胸で燻る炎は収まる気配がない。 「喉、かわいたな…」 キラはぽつりと、誤魔化しに頭の片隅にあった不快感を漏らしてみるも、心の靄が晴れることはなかった。 * キラとミリアリアは、明らかに場違いな豪邸を訪問し、キュリオケースをなんとか身の置き所のない思いに耐えながら、二人で食事室へと運び込んだ。男とはいえ華奢な体躯であるキラと女性であるミリアリアが運び込めたのは、キュリオケースが幸運なことにさほど重量がなく、空であったからだ。 指定されたとおりに運び終えると、キラが肩を回しながら、気だるげにミリアリアと小声で会話を始める。 「これくらい、業者に頼んで欲しいね。バイトなんだしさ…」遂に愚痴がこぼれるキラ。 「業者にやらせればいいのね…いくら経費節減とはいっても、どうせ金持ちなんだか、ら…」 ミリアリアは、広すぎる食事室と天井を飾るアンティーク物と推測されるやたら華々しい輝くシャンデリアを見上げて、うんざりと、趣味悪すぎとでもいいたげに大仰な溜息をついた。 キラが食事室から続く螺旋階段踊り場を見やる先には、上から指図していた中年の依頼主と、一目憚らず密着する、バスローブ姿の女がいる。酒などを傾けてドラマにでも出てきそうな、ありがちな内縁の関係であることは見て取れた。色恋沙汰に今まで大きな関心を示さなかったキラとはいえ、さすがに「愛人」と呼ばれる謂れが褒められたものではないというのはさすがに知っている。 「すごいよね。なんか…ミリアリアの言ってたとおりだ」 「…やっぱ噂どおりやーなオヤジだったわね……ちょっとお礼いったきり愛人とべったべた。もうほんと、早くかえろ…」 「うん…」 キラはミリアリアと共に壁際に運びこんだキュリオケースをなんともなしに見つめる。 あれは、コゼットの肖像画が隠されていたアンティーク品だ。もしや、もしや彼女に何らかの関わりがあるのでは…? はっと我に返りキラは思案したがる思考を振り払う。もう関係ないのだ、あの少女、コゼットのことは忘れなければならない。 恐ろしい血塗れた悪夢を見せる幻想だ、夢だ。忘れなければ、忘れるんだ。忘れなければ。 記憶は本来「忘れる」ものではなく、「忘れ去られていくもの」である。当人に「忘れる」積極性を要求するものではなく、むしろ忘れたいと願うことでより奥深く土壌に根を張り、刻まれていくのだ。 「…キラ?なんだか顔色悪いわよ」 キラは目の前の闊達な少女をうろんげに目を止めると、首を振りながらなんでもないと思惟を伝えたが、網膜に焼きついた愛くるしい少女の笑顔が彼を自由を束縛していたので、実際返答は、嘘であった。 もがけばもがくほど絡みつく蜘蛛の糸のような少女への愛は自覚しながらも、おそらくは決して手に入れてはならない禁忌。踏み出してしまえば決して元の、自分には戻れないだろうと沸き立つ血が危険性を糾弾している。 今も鮮明に覚えているのだ、喉に雪崩れ込むぬめりと鼻につく鉄の匂いと苦さを。 もうあの恐怖は味わいたくない、尋常な世界ではなかった。死が身に迫るのが、よく分かった。 だが、だが…。目を瞑った。 異を唱えようとする自我を押さえつけながらも、残滓を求めようとしてかキュリオケースに目を向けると、忽然と姿を現した、久方ぶりの少女の姿に、キラは目を剥いた。 「っっ」 空気を吸いこんだひゅっと第一声が喉に消える。 「コゼット……!?」 キュリオケースの硝子扉に向かい合う可憐な白のドレスを少女は、やはりその姿は現世のものではないのだろうか、少女の存在を透過し、キュリオケースが見える。 どうしたの?、というミリアリアの怪訝な問いにも、キラは取りあう余裕もない。いや、耳に聞こえていないのだ。 「君が、どうして…!」 少女は、キラの声に促されたようにゆったりと肩越しにこちらへ物悲しい青の瞳を向ける。 赤薔薇の髪飾りが薄紅の髪と相まって一層妖艶な美しさを引き立たせており、キラは言葉もなく少女の、あまりの悲哀の色に顔をゆがめた。 悲しそうな顔など、見たくはなかった。笑顔を、どうか、花咲くような可憐な。 僕にもあの、肖像画のような笑顔を。 無意識の歩みとともにコゼットに近づいて、キラが手を伸ばすも、 「コゼット…?」 だが彼が瞬いた次の瞬間には跡形もなく少女は霧散していた。 「キラ?」 「ミリ、アリア…」 振り返ると、それまでいた位置から、キュリオケースまでの距離が縮まっていたことに気がつき、呆然とした。自然と歩み寄る衝動で身体を動かしていたのだ。 「ぼく、ぼくは…」 もはやこの狂った愛情は歯止めの利かぬものなのだと心底震えて、体温があるはずも無かったが、少女が居た空間に手を伸ばすと、涙が目端に滲む。 僕の抑制の効かぬ微々たる願望が、少女の幻を見せたのだろうか。 それとも彼女の叫びが僕を引き止めるのだろうか、カットグラスの世界でしか生を得られぬ少女の嘆きが。 next |