Le Portrate de Petit Cossette / 4











キラは約束どおり、ミリアリアに昼食のハンバーグを奢って駅まで送り届けてから、暑苦しい軽トラで春蘭堂に帰還した。
恒例の溜め込んだ通販処理日ということで、今日は臨時休業している。
他の客分の荷物をまとめて配送業者に送り届けた上に、途中大学に寄っていたため、戻るのが随分と予定より遅くなってしまった。

キラは、店のスタンドを灯して、店番やアフター、バイトの指定席である木製の椅子に腰掛たまま、ぼんやりと、スタンドに置いた『コゼットの肖像』を見つめていた。

その絵は、確かにキャンパス地は年代相応に古びており、文献どおり18世紀に制作されたものであるとも納得がいくが、丁寧に塗り重ね、試行錯誤を重ねられた少女の肖像箇所だけがなぜか真新しかった。まるで、先ほど完成したばかりのように艶めいている。
移植した痕跡も全くないこの絵を前に、人はさぞ、気味悪がったに違いない。
ミリアリアは気がつかなかったようだが、おそらくは過去の人々と同じ反応を示すだろうことは容易く予想ががついた。
だからこそ、前の持ち主は、キュリオケースの隠し扉に日の目の当たらぬところへと、この肖像画を隠したのではなかろうか…?

しかし、キラが見つめていて抱くのは、気味悪さでもなんでもなく、もっと別の感情であった。
負ではない、複雑な思いを孕んではいるものの限りなく、好意に近い。

キラはスタンドから肖像画を手に取り、裏返す。
「『コゼット・ドーヴェルニュへ 愛を込めて マルチェロ・オルランド』…か」
絵画裏のサインを指でなぞり、キラは息をついた。
少女、『コゼット』への個人的な私信であろうこのメッセージに、キラは陰鬱な気分に追いやられる。画家が個人的に、誰かの為に絵を描いた場合、こういった類の私信には思いの丈が筆の流れや空気から滲み出るものである。キラ自身が美大生であり、絵を描いている身分である。伝わるのだ、肖像画からも、あのグラスで出会った少女…コゼットへの、画家の刺々しいほどの愛情と、それ相応に、モデルから画家へと向けられる親愛の想いが。

少女とは、あのおぞましい夢を見た以来、会ったことは――――いや、今日の昼間に、キュリオケースを配達した先でのできごとを覗けば、ない。なかった。
彼女は、キュリオケースの前で悲しげに座っていた。
錯覚だったのかもしれない。そうでないかもしれない。だが、キラにとっては、久方ぶりの少女との逢瀬であった。
「どうして、君はこんな愛しそうにマルチェロをみてるんだ?なんで……」
キラは、悪夢から引き出しに仕舞いこんでいたカットグラスを取り出し、何度か角度を変えて様子を窺うものの、白磁の肌も、淡紅の髪も柔らかな笑顔も垣間見えることはない。
当然じゃないか。少女は、今日まで現れてはくれなかったのだから。僕の前に。
キラは、未練がましい思考に、嘲笑した。
「いや、考える自体がおかしいか。…そうだろ、僕。だって、本当はそんなことあっちゃいけないんだ。もう忘れなきゃいけない。あんなこと…もう…」
キラはそう言いながらも、切なげに端正な顔を苦渋にゆがめて美しい少女の肖像画にそっと指で触れる。生まれたての赤ん坊の肌に触れるように、優しく。
「……コゼット」
彼女の年の頃は13、4ほどで、まだあどけなさの残る微笑みながらも、純粋な画家への好意が見て取れる。けれどキラの前では、笑顔を絶やさないながらも、どこか本心を隠した表情であったのに。苦しくて、たまらない。
「…どうして君は名前すら言わなかったんだ…?僕に…」
君の慈愛に溢れた瞳は、マルチェロを見ている。どうして、どうして見つめ続けるのだ。
今もこうして、僕の目の前で嬉しそうに、君は。
キラは口元を歪め、苦痛に耐え忍ぶように瞳を瞑る。彼女のことを考えれば考えるほど胸が締め付けられ、悔しく、心は悲哀に凍りついた。
昼間に自身が流した涙の意味も、なかったことに、出会いすらもなかったことにできれば、どれほど幸福でいられ、そしれどれだけ、不幸でいられたであろうか。

キラはコゼットからの逢瀬を断絶されてから、目の前で展開された血の惨劇の記憶を彼方へ沈めて、少女の影から逃げ出そうと何度も試みた。
密かに書き溜めていた少女の何百枚ものデッサンを棚奥、目にとまらぬ場所へ仕舞い込み、
なるべく春蘭堂での時間を持たぬよう、オーナーとも話し合いバイト時間を短縮させた。
だが、それが何になった。僕がどうなったというのだ。
低く喉で唸り、歯を食いしばりながら、カットグラスを出した引き出しから、震える手で目をそらし続けていた少女のデッサンを机へと開けば、封じ込めていた怒涛の感情が目を覚まして、キラは眩暈すらした。

ベンチで小鳥と戯れ、いつのまにか微睡んでしまった少女。
螺旋階段を降り、翻る白のドレス裾も気にせず嬉しそうに踊る少女。
こっそりと庭の果樹園に忍び込み、たわわに実った葡萄を一粒ほおばっているところをある日、見つけてしまうと、少女ははにかんで碧眼を瞬かせて、長い睫毛が白すぎる頬に影を落とた。僕は、伏せ目の少女を描くのが、とても好きだった…。

心中をあれほど荒らした刺々しさが、デッサンを捲るたびにいとも簡単に溶解していく。月夜の光舞い込む窓辺にそっと灯る暖かな橙のランプだけが、彼以外いない部屋の中、見る間に綻んでいく彼の目元の穏やかさを見つめていた。
湧き上がる恍惚そのままに、自身が滑らせた鉛筆の線を、指で辿り、少女の頬を伝った。
大人の女性への階段を上り始めたばかりの、蝶で比喩するならば、羽化寸前の刹那の美が、少女にはあった。キラを、魅了していた。

会わないほうがいい。事情を知らぬはずのタリアにも、悪夢の後、一言だけ忠告された。
「でも……僕は、どうしても…君に……君に」
無意識に呟いた瞬間、甘い痺れが脳髄を劈いた。


『キラ』


「――――――!?」
キラが立ち上がった拍子に、たたましい音を立てて椅子が倒れる。
「コゼット、コゼット!!どこにいる!どこにいるんだ!!」
激しい動悸と高揚のまま、キラは狂乱した身振りで辺りを見回して何度も彼女の名を叫んだ。
それは身を喰らう恐ろしいものと分かっていながらも、彼は禁断の蜜を求める憐れな蝶のように、求めることをやめなかった。
「どうしてっ」
キラは俯いて、胸中に溜め込んで追いやっていた無意識の本心が、氷解していくのが彼自身、手に取るように分かった。溢れ出た言葉は、他人が耳にしても顔を背けずにはおれぬほどの、あまりにも悲痛な響き。
「…どうして……会いに来てくれなかった。どうして…コゼット……どうしてだよ…」

『…たすけて』

「コゼット…!」
知らぬはずの少女の声に、コゼットであるとの確証もないにも関わらず、キラは確信して顔をあげた。理由は分からないが、その声の主はコゼットであると、頭ではなく心が知っていた。
『たすけて。たすけて―――――…
少女は弱々しいながらも、彼が心から待ち望んだ言葉を、呟いた。

『キラ』

キラは、びくんと身体を痙攣させるようにして、呼吸を止める。
彼女が、自分の名を初めて呼んだという事実一つで、衝撃を受けたのだった。
左右に瞳を彷徨わせてから、息をついた次の瞬間には、心の命ずるままに店を飛び出して、車へ飛び乗っていた。
エンジンをふかして、明確な目的地を目指して国道を飛ばす。向かう先は、昼間に赴いたばかりの豪奢な屋敷。
それしかもはや、目には入らない。信号も何度か無視したような気がしたが、関心がなく、どうでもよかった。不思議と彼女と再会するまでは絶対に死ぬことはない、そう確信していた。
おそらくは今、引き返せば元の平穏な生活が彼の元へと戻ってくるだろう。
…それでも。
それでも、キラは足を止めようとはしなかった。恐ろしい悪夢も、僅かながらの嫌悪も躊躇も、少女への圧倒的な思慕の前には全てが霞み、許せた。

「僕は、君に会いたかったんだ。やっぱり」
キラは心底愉快気に笑っていた。
君が誰であろうと関係ない。何者であろうと、もはや僕にはどうでもいい。
どうでもいいことだ。
ただ君が好きなだけだ。
大切だ。愛しい。
だから、会いにいくのだ。今度は僕から。車を走らせるのも、それだけの行為だ。
料理中、調味料が切れれば買いに行く。毎日服を着替える。それら日常行為と、なんら変わりのない。
彼女に、会いに行くことなど、それと同程度のことでしかないではないかと、ようやくキラは心から悟った。理性では阿呆だと己を罵りながら。

「『僕』はずっと会いたかった。なのに、一体…何を迷ってたんだ。我慢して、だからどうしようとしてたんだ。バカだった。会えないと悲劇ぶって、辛い目にあっててても、ただ自分が慰められるだけだ」
弾む息を飲み込み、キラは速度メーターにともる明かりを受け、爛々と紫が愉悦を滲ませて輝いた。

「コゼットが、僕に助けを求めている。会いたいといってる。そして…僕の名前を、初めて呼んでくれた。そんなくだらないことだけでさえ、僕はこんなに喜んでるっていうのに、忘れられる訳がないじゃないか」

例え、会うことで僕がどうなろうとも、どれほど苦しもうとも。
いつしか迫られた約束の前に、彼女が僕に尋ねて、僕は答えたはずだ。
「君の喪失など僕には、何よりも耐えがたい苦痛だ」と。
あの時、『僕』が『僕』として『僕の意志』で決めたのだ。ならば、何が迷う必要があったのだろう。もう逃れようとした最初から、決めていたんじゃないか。

「僕は会いに行きたい。だから、行くよ。コゼット。君の元へ」

キラが全身全霊で彼女を求めたこの時、引き返しようのない底なし沼へと、一歩を踏み出した。足元はぬかるみ、ただ沈んでいくしかない地獄には、鼻先から後すら見えぬ昏い闇が沈めば沈むほど、視界を恋人の目隠しのように、優しく封じた。
指が肌に絡む感触は、幸福の終わりを告げ、そして、絶望の始まりを告げる合図である。







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