彼女との逢瀬は、僕だけの秘密だった。 「キラ、お前もしかして・・女でもできたか?」 「そうなんだろ?それで最近、ぼーっとしてるんだろ〜」 同じ学部の友人が、どこか艶めいたキラに異変を感じたらしく、周囲を囲んで問い詰めていた。 彼ら友人部隊はここ数日、キラが、顔色を悪くし、遠い瞳をしていることが多かったことを気がかりに思っており、ルナマリアを様子見にもやったのだが…彼女の話から導き出された、「恋でもしてるみたいに、変だった」という投げやりな答えから、「恋煩いではないか」という的外れのようで、実際は正鵠を射た理由を導き出し、最終段階として詰問にかかっているのである。 ちなみにその理由の裏づけは、心労が積み重なっている己と照らし合わせて深く首肯した彼女もちのディアッカが一役買っていた。 「どうなんだよ」 「キラ。水臭いじゃねえか、女できたなら紹介しろよ。…マジで、できたの?」 彼らは、キラの珍しい「本命話」が聞けるかもしれぬ、とくれば興味津々にもならざるえなかった。 キラを好く女の話はよく耳にするものの(しかも美人がやたら多く、男友達からは妬まれている節があった)、付き合っているなどという浮いた話は不思議と出ないのが、キラという人物であった。 ようやく観念したか!と彼女付きのディアッカなど安心する者もいれば、先を越されたと内心焦ると同時に、いや、奴が身を固めてくれれば女が増えるという、ヨウランのような者もいた。 いつものように、のほほんとした笑顔を浮かべたキラが発する言葉を固唾を見守って皆が待つ。 そんな中でも、マイペースを崩さず、彼は言った。 「はは。アタリ」 「ええ!マジでか!?誰だよ相手は!!」 「嘘だよ」 脱力した周囲が一斉に総崩れした。 「「「「おーーーーい!!」」」」 「期待してもらったみたいで、ごめんね」キラは困った顔で、握っていた筆を置いた。 「俺の勘までは、騙せねえぜ」ディアッカが、笑いながら得意げに鼻の下を擦る。 「いやー!でもあながち、甘酸っぱ〜い、初恋だったりするかもよ!?」 「まっさか!俺らもう20歳だぜ?春オソスギー」 周囲の美大の先輩数人がどっと笑う。 キラは、先輩結構鋭いな、と内心で苦笑しながら、体のけだるさに、明日は大学を休んで病院にいこうと決めた。 今日で彼女と出会って、6日目になった。 Le Portrate de Petit Cossette / 2 <少女と出会いから7日目・昼> マリューはキラのレントゲンを貼り付けながら神妙な面持ちで患者用の回転椅子に腰掛けるキラに検査結果を努めて明るく告げた。 「どこにも異常なし。ちょっと熱っぽいけど、多分風邪ね」 「そうですか・・・」 近所で医院を開業する女医、マリュー=ラミアスは長い髪を頭部の高い位置でアップした髪を無造作に振りほどいてから、今尚疑わしげなキラのなんともいえぬ居心地の悪さを感じさせる目線に肩を竦めた。 「大丈夫よ。どうしたの、どこか他のところでも痛くなったりした?」 「いえ・・大丈夫です。ありがとうございました」 「知らない仲じゃないんだから。心配事があるなら、遠慮なくなんでも相談してくれていいのよ?」 言える筈がない。 キラは端正な面立ちを品良く緩めながら思う。 カットグラスの中に一人の少女の暮らしが垣間見えるなどと、言った所で誰も信じるはずがないではないか。それに、彼女との逢瀬は、僕たちだけの秘密だ。 キラが少女との一方的な逢瀬を楽しむのは、言わばカットグラスを手にした7日前からの日課となっている。今だ彼女の正体は分からない。名すら、彼は知らなかった。 万物の魂が宿ったのか。幻覚か、妖精か。 それとも器物の精霊か。 一人の少女の生活が記録映画のようにグラスの中に見える。 骨董店の店内は、橙色のランプが5つほどの明るさであり、雰囲気はさながら古来ゆかしい洋館のよう。 「どうしかしてるよな・・僕。幻覚と同居してるなんて。普通ならさっさと捨てちゃうのに。でも、どこか引き寄せられるような気がして・・・」 不思議なことにこの世のものではない彼女は全然怖くもないし、それどころか、むしろ―――。 「一体何なんだろう。どうして、僕にだけみえるんだ・・」 今日で、出会って7日目の夜になる。 神が、天地創造を終えた日も七日であった。キラは感慨深く思いながら、グラスを指で撫でた。 「君は、何を造るの・・・・・」 グラスの中には、城の影が霞みの中に浮んでいる。キラは、その世界を知りたいと願えば、不思議な世界へと旅たつことができた。今日も、いつものようにキラは、彼女を探して更に奥へ奥へと深遠を覗いた。 新緑が囲む森林へと足を進めると、広大な庭園には白の天使の像が中央にそびえた、色とりどりに花咲き誇る花畑がある。この城の地理も、ここ一週間探索したお陰で随分と詳しくなった。 ふいに、白いエーデルワイスが植わった一区画が揺れ、花々から、薄紅色の長い髪が印象的な可憐な少女が、白のワンピースを舞い上がらせ顔を出した。 どうやら、蝶を追っていたらしい…。共に舞うようにはしゃぐ少女を、キラは微笑みを向けてスケッチブックを開き、デッサンしていく。 …ボーン、ボーン。 キラはその鐘の音で、現実へと引き戻された。柱時計を見つめて瞠目し、慌てて画材道具を片付け始める。 「うわ、もうこんな時間か・・・十二時?店番しすぎだな」 病院によってから、バイト先であるここ、骨董品屋『春蘭堂』で店番をするキラにとって、カットグラス越しでの彼女との逢瀬は、時を立つのも忘れるほど心休まる時間であった。 現実離れした美しい世界での、この世のものとは思えぬほど麗しい少女との逢瀬は、回を重ねるごとにキラの恋情は募らせた。その心地よさは誰と共に過ごすにも勝った。 「じゃあ。…おやすみ。また明日」 キラは虹色のカットグラスを店の引き出しに丁重に仕舞いこむと、身支度がてらポケットに店の鍵があることを確認し、消灯して骨董屋を出ようと三、四歩歩き始めた、その時である。 『行かないで・・・・・』 「うわっ!?」 心臓が跳ねた。 「・・・・ひっ・・・うあっ・・!?」 誰も居るはずのない室内に木霊す少女の声にびくりと肩を跳ねさせ、キラは恐怖に震えながら灯りのないはずの背後に点滅する発光体を目にした。昼間時折姿を現してくれる彼女とは異質の感覚が神経を逆撫でする。 「・・・なんだよ、これ。なんなんだよ」 心臓の鼓動が鼓膜にまで響く。 どくんどくんと早打つ。煩い。何なんだ、何なんだ一体。 と、キラは信じられぬ光景に、言葉を失った。 …な、なんだこれ。 ―――――先ほど仕舞ったはずのカットグラスが虹色の光を発しながら宙に浮遊していた。 昼間あれほど美しいグラスが、今は禍々しい妖艶な輝きを帯びて空一点で止まっている様に見とれながらもしかし、微動だにできぬ身体は、ただただ得体の知れぬ者への畏怖に、凍っている。 グラスからやがて、光が漏れ始めた。放射された七色の光が白壁に反射して、部屋を明るく照らす。どんどんと加速していく明かりはグラスから派生し、飛び出した光が、辺り一面に、空間という空間に鬼火として灯る。 「うぁ、あぁ……なんだ、これ」 そう呻いたが最後。キラの視界は、唐突に暗転した。 「ぁ、ああ・・・・」 暗闇の中で少女の悲鳴が聞こえる。 雷なる暗闇の中、一人の青年が、脅え、震えて後ずさる少女を壁際へと追い詰めていく。 少女の足が部屋壁に接触する。後はない。 キラは、傍観者として金縛りにあったかのように動かぬ肉体をもって、その空間に佇んでいた。 その、少女。脅える、少女は…。 『あの子は…!!』 闇に慣れて瞳孔が開いた少女の碧眼には、青年の手に握られた赤々と鮮血の濡れぼそる刃物の鈍い光が閃く。切先からは、他者を切り裂いたばかりの鮮血が、下へ下へとしたたり落ちた。 床には、部屋の出入り口から点々と血痕が弄るように続いている。 「ひぁっ」 男が、強い力で少女の細い肩を掴んだ。 振り上げられる刃物の影が、雲の上で轟いた雷光により壁に投影される。 「どうして・・・どうして私を・・・?」 少女の熟れた果実のような赤い唇は、繰り返し繰り返し疑問を呟く。 大粒の涙が、キラキラと白磁の肌を伝って飾り立てた。 『やめろ。やめろ…やめろ』 キラには、少女の遠くない未来が予想できた。拳を握り締めて腕を動かそうとしたが、身じろぎ一つ出来ない。歯を食いしばって、呟き続ける。唇が戦慄き、声が震えていた。 「好きなのに・・・大好きなのに・・・・」 「僕も愛しているよ。コゼット!」 『やめてくれぇええ!!』 キラの絶叫も空しく、勢いよく言い切きった男は、凶器が男の薄笑いと共に振り下ろした。 背の低い影と高い二人の影が一気に重なる。 「きゃぁああぁああっ・・・!」 ざしゅりと肉を裂かれる音と少女の儚い断末魔が、静か過ぎる城に木霊し、少女の胸からナイフを抜き取って吹き出た血潮に、青年の顔は高い鼻の影を残して塗装された。 キラはあまりの現実味のなさと、眼前で今しがた繰り広げられた凄惨な光景に言葉をなくしていた。 誰だ、こいつは、誰だ!? いや、見知らぬものではない、他人でもなかった。 こいつは、この男の、姿は――――――――。 『僕・・・!?』 キラの掠れた呟きに反応してか、幾分か年上であるという点を除けば、キラと瓜二つの男が、血に濡れた姿でこちらを振り向いた。 満足げに微笑みすら浮かべた男の瞳に光るものは、紛れもない狂喜。狂気。 手に握られたナイフからは、真っ赤な雫が滴り落ち、静寂の室内に嫌な音を立てている。耳をふさぎたいが、手が動かない。 キラの脳裏に氾濫している膨大な情報が処理しきれなくなり、火を噴いて思考が停止していく感覚が強まる。視界がぼやけて、次に色が褪せていく。気が遠くなった。 これが、死だろうか…死が訪れるということなのか…?不思議な実感を、確信として持ちながら、昏倒する寸前まで見開いた目に、カットグラスが、窓から差し込んだ月明かりに昏く輝く様が映る。 網膜を焼かんばかりの鮮烈な、光。ヒカリ。 「………っ!」 視点が現実世界へと唐突に戻った。 キラの手にはカットグラスが握りしめられている。 グラス表面から沁みのように湧き出た鮮血が縁から破裂し、どろりとしたぬめりがキラの手を紅く染め上げた。 「うわぁああああ!!」 手から落ち、床を転がるカットグラス。 歯をガチガチと音をたてて、恐怖のあまり体勢を崩し、仰向けに倒れこんだ。 絨毯に、グラスから流出した血液が床にじわりと染み込みこんだかと思えば、収束するどころか生き物のように成長して、触手をキラの身体にまで伸ばし、全体を飲み込みこんでいく。 キラの息は荒かった。間隔が、次第に短くなり、心臓が不規則なリズムを奏でていた。 「殺した。僕が、あの子を・・・・・!なぜ!!なぜだ!?」 ふいに出現した他者の気配に、キラがばっと顔を上げた。 「っ!!!」 闇の中、冷たい碧眼がキラを見下ろしているのは、先の世界で、死したはずの少女であった。 どこからか吹き込んでくる風に薄紅色の髪を揺らせた、悪魔の如き美貌をもつ彼女は、床に転がったカットグラスを佇んだまま、軽く手招いた。グラスは吸い寄せられるように、彼女の手内に引き寄せられる。それは、いつもキラが見つめているものよりよほど禍々しさを増し、だからこそ、恐怖の渦中にありながらもキラを魅了するほど、妖しい魅力を湛えていた。 天高く、彼女がグラスを掲げた。鮮血がグラス底から噴出し、量を増して満ちていく。 熟れた果実の唇が、歌でも歌うように優雅に動いた。 『飲んで・・・これを。あなたにはその資格がある』 白い歯が、笑みを刻んで告げる。 『飲んで。私と、離れたくないのなら』 キラのかたかたと震える腕は、己の制御下から抜け出してしまったかのように独りでに、少女が差し出した血の聖杯へと伸びていた。 彼の胸に巣食う、身を焼きつくさんとするほど苛烈な少女への焦がれる想いが全身を呪縛し、支配していた。この、異形の美のためならば、彼女が望むならば、それでも構わないと思った。 『飲んで。私を、失いたくないのなら』 離れたくない。 離れたくない。 離れたくない。 離れたくない。 君との別離など僕には耐え難い苦痛だ。 この身を切り刻まれた方がまだマシだ。 離れたくない。離れたくない。別離など考えたくもない。 強い強い、何者にも侵せぬ神聖な思慕がキラの一切を停止させる。 確かに彼自身、得体の知れぬ焦りに恐怖して理性が静止を呼びかけていたが、それをあっさりと凌駕していく途方もない甘美な誘惑が脳髄を芯から痺れさせ、侵食していく。 キラは言われるがままに受け取り、グラスに唇をつけと、むせ返るような鉄の匂いを嗅覚が察知し、胃液がせりあがるような拒絶が襲来したが、反射を無視してまで、喉に流し込んだ。 煽る口端から漏れでた一筋が赤い川をつくる。 「ぐっ、ぅぅうう…」 ごくりと音がして、少女とキラの誓約が飲み込まれた。血に混ざり、混ざり…彼と一体化していく。 細胞の隅々にまで、破壊という破壊を施工していく。 『これであなたは私のもの…』 「… 」 キラは、知らぬはずの名を呼んだ。訳も分からず、ふと、涙が流れた。 // 春蘭堂に、朝日が差し込んでいた。 今日もまた、夜明けが訪れ、いつも通りに。 「・・・キラさん?どうしたの、キラさん!?」 タリアは悲鳴を上げて、開きっぱなしの店の出入り口から倒れ伏したキラに駆け寄っていく。 彼の傍には、朝日に照らされ虹色が床に透かされたカットグラスが転がっていた。 // * * あの日の夢以来、キラはグラスの中に少女を見る事はなかった。 おぞましい出来事は、自らの警鐘であったに違いない。よかったのだ。見えなくなって、よかった。よかったに決まっている。 キラは、呪文のように、信じ込ませたいがようにその言葉を幾度となく反芻している。 以前の恋焦がれた熱情を思い出せば、なんと物分かり良く納得できていのだ、と驚き、いぶかしみながらも、やはり見えなくなって良かったのだと、またキラは亡霊を振り払う。 忘却の彼方へ『少女』の影を廃棄してしまおうと頭を振った。 店番をしながら、カットグラスを前に頬付いてぼんやり考え込んでいたキラの視界がふいに翳った。 「おはよう、キラ。今日は、お客さん連れてきたの」 顔を上げると、影の主がにっこりと笑っていた。 それはよく見知った、同美大に通う幼馴染の姿である。 「ミリアリア。どうし……お客さん?」 キラの鼻先まで、にっこり笑ったミリアリアの顔が一気に突きつけられる。 腰を引くキラ。この顔には、多分十中八九裏がある。 「そ。お客さん。いい話でしょ?」 ミリアリアが、キラの真正面から退き、腕を振って「お客さんよ」と、紹介する。 50代半ばと見えるスーツ姿の男性が、軽く会釈をした。 話が見えないながらも、キラは店番として頭を浅く下げておく。 キラとミリアリアが胡散臭そうに男を見つめている中、一通り店内を物色してから彼は言った。 「これなんて、なかなかだな。素晴らしい」 中年の男性は、純白のアンティーク、キュリオケースを撫でたり、ノックしたりして響きや手触りを吟味している。価値を真に試しているのかは、甚だ疑問ではあった。見せ掛けだけそれらしくしようとする類の人間など、骨董店ともなると五万と来店する。そしてどうやら、この男性は残念ながら、キラの店番歴と照覧すれば、その部類に属するようだ。 「いやあ、私の故意にしている女性が新しく買ってやった家に骨董がほしいといいましてな。いやあもう我侭で。はっははは」 上機嫌に笑う男性の影で、ミリアリアがが囁く。 (昔土地転がしで儲けた成金オヤジなんだって。私、この人とちょっと知り合いなんだけど…胡散臭いよね) 胡散臭い人間と知り合いのミリアリアは胡散臭くはないのだろうか、とキラは思ったが、何も言わなかった。ジャーナリスト希望の彼女は、顔が広いため、平凡な身元の人間よりは、胡散臭い類の人間の方が好奇心をそそられるのではないだろうか。他人事ながら、ディアッカも大変だ。 中年男性は、開閉扉部分に縁取りされた豪奢な金細工にでも気に入ったのか、声を張り上げて喜色ばんだ。 「すぐにでも運んでもらおう。で、いくらだね」 (ふっかけちゃえ。私がやるわ) ミリアリアがそう耳打ちすると、三割高の高額で商談を瞬く間に成立させた。 「さすがジャーナリスト希望…」 きっとこの幼馴染は、逞しさと度胸で詐欺師にも適正があるに違いない。 * * 「ねえ、キラ。キュリオケースの隠し扉の中にこんなにが入ってたんだけど」 中年男に買い上げられた、愛人への献上品の、梱包と清掃を手伝っていたミリアリアが、いつもの定位置であるバイト席で、金勘定をしていたキラの元に、ひょこりと顔を出した。 「これ…知ってる?」 ミリアリアから絵画を差し出され、キラは愕然として大きく瞳を見開く。 胸が高鳴ると同時に、冷や水を被せられたようだった。心中を戦慄が駆けぬけた。 「しら、ない…けど」 「そう…。どうして、一緒に入ってたんだろう。セットなのかしら…」 言いながらミリアリアがサインをなぞり、スペルをぎこちなく確認する。 「マ、ル。チェ、ロ・・・?・、マルチェロ…オル、ラ、ンドだって。・・・どっかで聞いた名前ね」 「マルチェロ・・・・オルランド」 キラは食い入るように見つめる。 それは、薄紅色の髪、二対の碧眼をもち、一人微笑した―――キラが恋焦がれた少女の、肖像画であった。 next |