愛しい自分の命を振り捨ててまで、私を愛してくれるのは誰。 Le Portrate de Petit Cossette / 1 僕は恋をしている。 碧眼、陶磁器のような肌、血を涙で薄めたような薄紅色の長い髪の少女が, 広い洋館を無垢な笑顔を浮かべて駆け回っている。 純白ののレースが何層にも折り重なった可憐さを引き立てるドレスを身に纏い、少女は長い長い螺旋階段を下っていく。 赤い絨毯が敷きつめれた大広間へと降り立った少女は、くるりと一回転すると、階段手すりにか細い手を撫で付ける。この広間には、温かさを感じさせる、木材を基調とした数々の調度品が置かれているため、広いながらも簡素ではない。 大きな硝子が嵌め込まれた、窓側の壁際にあるガラスケースには、陽光が色とりどりのグラスを美しく輝かせている。大時計が、ボーンとなって、低音を部屋一杯に反響させた。 少女は、大広間中をくるくると回るように踊りながら、軽やかなステップでガラスケースを覗いたり、壁高くかけられた絵画に目をやっている。 ころころと変わるほんのり頬をさした無邪気な笑顔で、僕への親愛をこめた碧眼は、夢心地の惚けた僕を映している。 * * 中央線の、とある駅近く。 善導寺商店街の中に、古びた洋館、といった印象の小さな店、骨董店『春欄堂』がひっそりと店を構えていた。骨董に興味のない一般人でも、その雰囲気のよさに、立ち寄ってしまうことも多い、不思議な骨董店である。 そこでアルバイトをする画学生、キラ・ヤマトは、商談に使用されるはずが、今では店番専用と成り果てている木製の漆色をした机に頬付いて、木製のチェアに腰を置いていた。 「今日は、機嫌よさそうだね…」 キラは、七色に輝く古びたカットグラスを様々な角度に傾け、店内の赤焼けたランプで明かりを当て、万華鏡の如く覗いている。 カットグラスの表面に、花畑とドレス姿の少女が無声映画のように投影されているが、追いかける視点はレンズのそれではない。紛れもなく、その世界の地を踏み、キラの目線から少女の後を追うといったものである。 花畑で蝶や、花を見ていた彼女は、やがて館へと走って戻っていく。大広間の花柄ソファに優雅に腰掛ける。昼ということもあり、眠くなったのか、小さなあくびを漏らし、そのまま頭を肘置きに預けて眠りこんでしまった。 キラは少女のあどけない寝顔に柔らかく微笑んで、机の上に転がっている鉛筆と、スケッチブックを手にを取った。日課となっているスケッチを始める。 「ちょっと・・・・もう、キラ先輩!」 「ん?」 鉛筆を走らせていたキラに、若干苛立たしげな女の声が、かかった。 特に急くでもなく、ゆったりとグラスを丁寧に机に置いて顔を上げると、いつやってきたのか、後輩のルナマリアが腰に手をあてキラの顔を覗き込んでいた。無視されていたこともあってか、若干不機嫌そうであったがキラは、気を取られていたために気がつかない。目線は、起床してグラスから消えた『少女』を追っている。 「ああ、…ルナか……」 どうでもいい風に言いながら、キラは、ルナマリアを通り越して更に高く目線を上げた。 天井につるされたアンティークのシャンデリアに、走り去っていく少女の後姿が見える。 (帰っちゃったか……) キラは瞬間、不愉快気に少しだけ表情をくすめたが、次にルナマリアに目を向けた時には、やんわりと人好きのする笑みを浮かべていた。 「で、どうしたの?」 「どうしたのって……先輩」腰に手をついて、ルナマリアは呆れた様子で息をついた。 勝気そうな彼女は、ルナマリア・ホークという。美大での一学年後輩で、同じ学科である。 キラの高校の後輩でもあり、共に美術部に所属していたが、階級制度が固定した先輩後輩の関係というよりは、同い年の友人といった間柄である。 妹を持つルナマリアにとって、ぼんやりとしているキラがどうにも放っておけないタイプらしく、友人のミリアリアを通じて世話をやいている。お互いに、そういえば年齢差があったか、などと改めて思い出しては少しばかり驚くほどだ。 それでも、一応は礼節を踏まえた丁寧語使用である。ルナマリアはフランクではあるものの、基本的には目上に礼儀正しい。 「も〜。どうしたもこうしたもありませんよ。私、キラ先輩に、部室に筆忘れたから、暇なら届けてくれない?って、いわれたじゃないですか〜。帰り道だし、今日バイト前に寄りますよっていいましたよー私〜。…まっさか、忘れちゃったんですか?」 「あ、ごめんごめん。もうそんな時間だったかな。忘れてたわけじゃないんだけど」 キラのアバウトさを知っているルナマリアは、疑わしい気に目を細めていった。 「本当ですか?もう、先輩はいっつもぼんやりしてるんだから。はい、筆。それと―――」 ルナマリアの始まりそうだった説教の文句が、一点を見つめたまま止まった。 「……?どうかした?」 「それ………」 キラは訝しく思い、彼女が目を向けている矛先を辿ると、自分の手元にあるカットグラスに目線があることに気が付いて、嬉しそうに口元を緩めた。 「綺麗なカットグラスだろ?7日前に輸入されてきたばかりなんだ」 「本当………素敵ですね。七色に輝いて。表面自体が虹みたい・・・いくらくらいするんですか?」 「オーナーに聞いてみないことにははっきりとは分からないけど」 「でも、高そうですね」 「うん。多分そうだと思うけど。僕が七日前頼まれて倉庫で在庫整理してたら、偶然輸送されてきたばかりのアンティーク品の中で見つけてね。僕が熱心に見つめてたら、オーナーが手元近くの棚に置いてもいいよって言ってくれてからは僕の傍に置いてるんだ」 すっかりご執心とみえるキラのうっとりとした顔を笑いながら、ルナマリアはそのグラスを軽く手にとり、瞳を輝かせて四方八方を眺めている。そのカットグラスの虹色は、カットダイヤを連想しても遜色のないほど、誠に美しかった。おそらく、及びのつかないほど高価なものなのだろう、店番がこれほど大事そうに手元で保管しているくらいなのだから。 一方、キラは自慢の子供を褒められた父親のように、嬉しそうにしている。 「でもこれ。すごく先輩好きそうだけど、売り物なんでしょう…?」 「……………」 答えず、キラは苦笑すると、手でこちらにグラスを返すように、促した。 ルナマリアは、言われたとおり返却しようとグラスを差し出したその瞬間、 「あ!」という彼女の焦燥が追いつかぬ間に、カットグラスが滑り落ちた。 「…!!!!!!」 キラは、カットグラスが落下する様を目を見開いて凝視し、驚愕と畏怖に彩られ、声にならぬ悲鳴をあげる。引き攣れる喉、喪失に開く唇。 腰をあげて腕を伸ばすも、机越しでは間に合うはずもなく、あえなく硬質な床へと落下して乾いた音を立てた。 「あ、あぁああっ…!!!」 「きゃっ!」 キラは獣じみた勢いで転がるカットグラスに食らいつくように飛びつくと、すぐさま破損の有無を確認する。 なんなのだ、一体……。 ルナマリアは目の色を変えたキラの異様な姿に圧倒され、グラスの高価さを忘れて呆然とする。 キラは光にグラスを透かすなどして、入念に点検して手元に抱いていた時点となんら変わりないことを悟ると、キラは胸底から心底安堵の息を漏らす。 そして、慈愛に満ちたグラスを見つめた瞳とは一転―――普段の温厚な影など微塵もなくした、ただ憎悪と怒りのみが滲む血走った瞳で、ルナマリアを睨みつけて声を荒げた。 「何やってるんだ!もしもこれにヒビでも入ったら、どうする気だ!!」 「っ!!」 どなりつけられ、思わずびくりと肩を萎縮させたルナマリアであったが、落ち着いてよくよく考えをめぐらせると、状況の異常さに気づいて、すぐさま常時の負けん気の強さを取り戻し巻き返しを図る。 「な、何よ!ただ、落としただけじゃないですか……!!」 それがあたかも『あの少女』自身を軽んじるような発言のように感じたキラは、また血が上った。カットグラスを胸に、再び激昂した。 「『ただ』だと!?ふざけるな!!これがどんなものなのかも知らないくせに!!」 「!?」 たかがカットグラス一つだというのに―――! ルナマリアはその彼の尋常ではない怒気に、怒りに狂う紫の瞳に、射殺されそうに思う。 なきそうなルナマリアに気づき、はっとキラは我に返る。 自分が息を弾ませるほど怒りに熱を上がらせていたことを知り、今だ猛る怒気を紛らわすよう前髪を無造作にかきあげる。恐怖により、乾いて引っ付いた喉に、紡ぐ言葉もままならず唾を飲み込むも、潤す足しにもならない。今だ興奮状態から脱っせぬキラは、肩を上下させている。 「ごめんね…」 「え…」 ようやく幾分か落ち着きを取り戻したキラが、かがんだ体勢のままゆるゆると見上げると、肩を竦めたまま呆然と立ち尽くすルナマリアと目が合った。 改めて見ると、闊達な彼女の小動物のような表情に、なんともいえぬ罪悪感が押し寄せてきた。 「・・・ごめん。言い過ぎた」 「う、ううん。私がいけなかったんです・・・すみません。売り物ですしね。今日は私、帰ります」 「ああ。そうして。ごめんね…」 「い、いえ」 萎縮したままルナマリアは震えた声でそう言うと、手土産の夜食を置いてから足早に店を後にした。 キラが僅かに呼び止めるような仕草を目端でとったが、気づかぬ振りをした。 友人たちとも話しているのだが、最近のキラ先輩は、なんだか様子が変だ。 いつも以上に、心此処にあらずといったようにぼんやりとしていて…。 迷惑をかけられても、人が変わるほど激昂する人ではないのに。 店先でタロット占いを開業しているタリア・グラディスは、丁度カードをめくっている頃合であった。 客足も途絶えたばかりであったらしく、ゲストの見送りに顔を上げたところ、店を飛び出してきたルナマリアと、期せず視線を鉢合わせた。 (やっぱり、この人も美人なのね・・・) ルナマリアは、春蘭堂によくやって来る噂の美女・善導寺の若き尼僧とやらには、見えなかったものの、タリアだけでも『キラの周囲には綺麗な女があつまってくる』という巷の噂は真であったと確信できた。ミリアリア先輩は「昔からそうだった」と、苦笑していたことを思い出す。 「こんにちは」 タリアに、丁寧に挨拶され、先ほどの事態で今だ顔は青いながらも、ルナマリアは笑顔を繕って愛想よく挨拶した。 「・・・・こんにちは」 「キラさん。最近、様子がおかしいようね」 「え…占い師さんも、そう…思うんですか・・?」 「ええ。彼、街で見かけたら、何か独り言をいいながら青い顔で歩いていたから」 「そうなんです。最近、キラ先輩ぼんやりしてて…私、実は。友人代表で、バイト先まで押しかけたんです。・・・何かご存知ですか?」 恋人に振られたのだろうか、いやそもそも奥手そうなキラ先輩が女関係で悩まないか…? ひょっとしたら、興味をそそる話を聞けるのではと好奇心が不謹慎にも疼き、ルナマリアは彼女に尋ねたが、返答は平凡なものであった。 「いいえ?」 「…そうですか」肩を落とすルナマリア。噂は大好物である。 「ええ。……ただ………」 タリアは慣れた手つきでカードをシャッフルしてタロットカードを並べ、左側から順々にめくっていく。ルナマリアは、捲られたあるカードで、険を深くする。 タロットに詳しくはないが、図柄で意味するところはおおよその想像がつく。 『塔』のカードの、正位置。 「どういう、意味なんですか…?」 タリアは、神妙な面持ちで、塔のカードを指先で指した。 「この高い塔に落ちる雷は、神の怒り。窓から落下していく男は、どのような格好をしていると思う?」 「……うーん。とても、高そうな服ですね。裕福な人でしょうか」 「そう。彼は裕福な暮らしをしていた。でも、それは不正を働いて、手に入れたものなの。この塔も、豪奢な洋服もそう。けれど、天罰が下ったのね。この男は、一瞬で、全てを失ってしまった…」 カードに篭められた不吉な話に、ルナマリアは気味悪さを感じながら、タリアの続きを待つ。 「この『塔』の正位置。その意味は、――――『危機』」 「様子がおかしくなった5日前から、毎日彼を占っているんだけど、いつも同じ結果……」 タリアは、そう呟いた。 陽が落ち、辺りが暗くなった頃。 キラはカットグラスの中、気ままに暮らしを送る少女のスケッチを、ルナマリア帰宅後の客足が一通り落ち着いて、閉店間近となった時間帯に再開した。 「あれ」 デッサンしていたキラの手が止まる。グラスから、少女の姿が消えたのだ。 キラは慌てず、店内に視線をめぐらせていると、陽炎のようにぼんやりとした輪郭の少女が、キラの前にその姿を現した。 気まぐれに、この現実にも遊びにやってくる少女は、店内のアンティーク品を興味深そうに見て回っている。買い付けが趣味という店主の趣向が反映されており、品の入れ替えが頻繁なのもこの店の変わった特徴であった。また、店主がどう売りさばいているのかは不明だが、連絡が入ると品物をどこぞかへ宅配便で送ることもしばしばだった。 「今日は、機嫌がいいのかな…?」 少女は、限られた緑の世界で一際、天高くそびえる中世の塔を屋敷として生活している。 スケッチブックに、軽い筆圧で柔らかな曲線を描く頬を形作り、流れるように肩から腰へと、薄紅色の長髪をゆったりと撫で下ろす。独り言が多いのは、言葉を発さぬ少女にせめて、キラの意志くらいは知って欲しいからだ。対話のないコミュニケーションというのは味気のないものかと思いきや、言葉の代用として、少女は豊かな表情で返答をよこしてくれるため、さほど意思疎通に支障はきたさなかった。 「君の睫毛はもう少し長いな…」 少女が、ちらりとこちらを目配せして首をかしげたが、興味をすぐに失うと、また見物へと戻っていった。自分の睫毛の長さなど、他人に言われて始めて気が回るものであるから、指摘を受けても対して思考を巡らすほどでもないのだろう。 キラはいつもの指定席で、甘さをもった瞳を細め、少女の楽しげな姿をあたかも取り付かれたように、一心不乱に描き出していく。 彼女の、大きな愛らしい碧眼は磨き上げられたエメラルドを嵌め込んだよう。 そして髪は、唇は、可愛いえくぼは…。 少女が笑うたびに、少女が歩くたび。一挙一挙の動作すら眩しく、そして愛おしい。 キラは、彼女を描くことは最も幸福なときの過ごし方であり、少女へと思慕を再確認することであった。 ああ、僕はこの少女が好きなのだ。 出会った当初は僅かに不吉を覚えたものの、今ではたとえ幽霊であろうとなんだろうと構わない、とまで思えるようになっていた。 彼女に対して抱く不満といえば、一度も声を聞いたことがないという点くらいで、己でも不思議なほど、思いは満たされていた。 キラは幸せそうに微笑みをたたえながら、鉛筆先で少女を生み出していく。ここ5日で、何枚も何枚も書き溜められたデッサンは、購入したばかりで白紙に近かった一枚のスケッチブックを、埋めつくさんとしていた。 僕は恋をしている。 彼女と初めてであったのは、5日前の夜のことであった。 // 5日前・閉店後 「……全く、どうしてあのオーナーは、こうも品物の扱いがいい加減なんだろうなぁ」 キラは面倒くさそうに頭をかきながら、搬入されてきたばかりの輸入品を整理するため、倉庫へとやってきていた。預かってきた倉庫扉のロックを外し、足を踏み入れる。 骨董品には陶器類も多い。『注意』の赤札が、所狭しと貼られたダンボールの山を認めるや否や、キラは厄介ごとを押し付けたオーナーの真意が知れて、うんざりと肩を落とし軽く首を振った。 「要は壊れ物がいっぱいあるから、整理するにも面倒だってだし僕に押し付けとけって寸法じゃないか……自分は買い付けるだけなんだから、楽なもんだよ」 君が販売する以上、品物は一通り目を通してもらったほうがいいしね、と珍しく店にやってきたオーナーは、キラの父親の兄である……つまりは、叔父だ。 だから、ここまで気安く、厄介ごとを押し付ける気にもなるのだろうが、それにしても遠慮がなさすぎる。残業手当は弾んでくれるとは確約させたものの、釈然としない。 自分でやれよ、が本音だ。 一服盛られた気分に浸りつつ、在庫整理を溜息混じりに、しぶしぶ始めた。 まずは、手身近にあるダンボール箱から――――― ぞわり。 「……ん?」 キラは背筋を駆け上った寒気に、ゆっくりと背後を振り返る。背後に積み上げられたダンボール箱に、奇妙な気配を感じた。 吸い寄せられるように立ち上がる。 身体が意志を持ったように動いているのは、気のせいか?いやそれとも誰かの…? 薄気味悪さを覚えながらも、キラは強烈な誘惑に誘われるまま、ダンボール箱を封じるテープを剥ぎ取ると、厳重に梱包された食器類を一心不乱に探り出す。何を目指しているのかは、彼自身、分からない。そして、全く知らぬはずの一点を発見し、手がとまる。 「グラス・・・?」 紙の折り目から僅かに覗いていたグラスを手に取り、申し訳ない程度につけられた天井の裸電球に、包み紙から取り出して、それを透かした。 表面が七色に燦々と輝き、なんと綺麗な――…これほど美しい骨董品は、幼少から様々骨董品を見せてもらってきたがお目にかかったことがない。感嘆の息をついて、恍惚と潤んでいたキラの瞳がグラスのある一点で、突然と恐怖に見開かれた。 「うわああ!?」 グラスが落下し、乾いた音を奏でる。戦慄し、キラは唇を緊張に震わせた。 「おん、なの子・・・!?」 落下したカットグラスが、裸電球の貧しい光以上に光り輝いた。 表面に映る西洋系の少女が、碧眼を細めてキラにまっすぐ微笑んでいた。 next |