マイケルはどろどろに汚れきった部屋を見回すやいなや、どんな綺麗好きも
一撃で疲弊しそうなあまりの惨状に――――幼いマイケルも例外ではなく、思わずさっと目をそらした。
そらしてから、一体もう何年になるだろうか―――――。




「……マイケル!そんな離れたところでうとうとしてると風邪ひくわよ」
(女の人!?……なんで男所帯に!)
見知らぬ女性の声でマイケルは顔を上げると、カルシファーの火で明るく照らされた室内、あかがね色を一層濃くした髪を二つにまとめたソフィーが、心配顔で覗き込んでいた。
「あれ、……そか。ソフィーさんだ」
「もう。寝ぼけてるのね!マイケル、夜も遅いわ。ハウルは私が待ってるから、あなたはもう寝なさい」
別にハウルさんを待っていた訳ではなく、マーサと久々に七リーグ靴で遠出したので単に疲れが出てテーブルで微睡んでしまったのだろう。
大体あの人は昔からいつも帰りが遅くて、まだ可愛げのあったころはきっとお仕事で遅いのだから待っていなければと眠い目を擦っていたのだが、カルシファーにその理由を聞いてからはこの火の悪魔からの勧めもあって、早々に自室へ退散していくことが多くなっていた。
まさか女の元へ出向いている師匠が真夜中に帰宅して、幼い彼が迎えるにはなんとなく決まりが悪かったし、どう声をかけていいのか見当もつかなかったのだった。

「マーサが楽しそうで良かったわ。あんなに喜んでるあの子見るの久しぶりだもの」
「僕も楽しかったですよ」
「そうでしょうね、だからあんなに服も汚れてたんだわ」くすりと優しく笑うソフィー。
マイケルは顔を赤らめて、「あれは七リーグ靴の着地が間に合わなくてマーサを庇ったら転んだだけですよ」
と罰の悪そうに瞳をそらす。
持ち出した瓶からミルクを鍋に注ぎ入れながら、ソフィーは言う。
「分かってるわよ。マーサも嬉しそうに話してくれたもの」
「知ってたんですか」
「なんたってマーサは私の妹なんだからね」
釈然としないマイケルは、カルシファーの火に鍋をかけてミルクを温めているソフィーを頬杖付いてぼんやりと見つめながら、ふとぐるりと部屋を一望してみる。
幼い頃、昔の視点から一段も二段も上がった高さから見回すこの部屋は、思っていたよりもずっと狭くて、そしてこれは勘違いでもないだろう。
断然に普通の、身奇麗な部屋となっている。
マイケルは半眼になって、まさかこの動く城で『綺麗な』なんて単語が使用できる日が到来しようとは思いも寄らなかったなあとテーブルをすっと人差し指で梳いてみるも、汚れが一つもつかず、つるりとした木製の感触が触れるばかりだった。
ハウルさんはあれだけ毎日身綺麗に何時間も浴室に篭っていた(女性のためとはいえ)というのに、部屋の片付けには魔法ですぐにでもなんとかできることが災いしてか関心すら回さなかった。

変わらないようで、ソフィーさんがこの城で住み始めてからは随分と様々な物が変化していくのは感慨深くて、今更なのにこんな風に顧みると一番変わった人物が身近にいた。
「ハウルさん、ちょっと変わったような気がします。ソフィーさんが来てくれてから」
訝しげにソフィーは眉を顰めて鍋からマグカップにホットミルクを注ぐソフィー。
思考に頭が回っているのか手元がぐらぐらと危なっかしい。
「……そう?今も美人には弱いし、ぬるぬるうなぎだし、どうしようもない臆病者だし」
淡々と的確な欠点を並べ立てるハウルの妻に、マイケルは憧憬の視線を投げやりながら感嘆した。
「…なんだか僕ソフィーさんを尊敬しますよ」
「あら、ありがとう」
人となりを知り尽くした僕が女性なら絶対ハウルさんのような人を夫にしたいとは一瞬たりとも思わないだろう。
確かにいい人だし、まじないが加わっているとはいえ長身痩躯と甘い顔立ちと饒舌な舌、時折構いたくなるような子供っぽさが抜けぬ性格は、女性を虜にする条件を十分に満たしているといえるが、
………ソフィーが堂々と並べ立てた欠点と浪費癖と生粋の面倒臭がりやばかりは頂けない。
散々過去被害を被っているマイケルとしては、殊更拳を震わせて切実に糾弾できる。

「ほら。飲むとよく眠れるから飲みなさい」
ミルクに口をつけながらマグカップをマイケルの鼻先に突き出したソフィー。
小さく戸惑いながらも、素直に受け取ると湯気の立つマグカップを両の手に包んだ。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
数歳とはいえ、年上の女性からこうしてホットミルクを受け取っている自分というのは。
なんだか妙な気恥ずかしさで体中を掻きむしりたくなるほどのむず痒さに、マイケルはおずおずと縮こまって息で冷ましながら口に運んだ。
甘さを増したミルクがどうやら寝冷えていたマイケルの体に温度がじんわりと染み込んで、そういえば孤児となってから忘れていたが母の匂いに似ているのかもしれないと思いついた。
正面に腰掛けて、退屈しているカルシファーの話し相手となって他愛のない話、大方がハウルへの相互理解の為せる愚痴を交わしている。
ぱちぱちと火が弾けてがらんと薪が崩れる音が静かな室内にやけに響いて、壁に蔭る影の様相も微々に形を変える。
すっかりミルクで温もった吐息を吐き出して、またマイケルはマグカップを口元に近づけていくと、バン!とけたたましい音と共に動く城の主人が派手な恰好が雪に愛された代価か、僅かながらの白塗りで参上した。
よほど虫の居所が悪いのかうっすらと積もる雪を払いのける仕草もいつにまして荒々しい。
「あー寒い!もうどうして冬ってやつは僕が外出する度に毎年やってくるんだろう!」
文句をつけながらハウルが馴染み深い出入り口の扉から肩を震わせて部屋に飛び込んできて、
真っ先にカルシファーに赤い手を突き出した。
「足りない足りない!僕はこのくらいの暖かさじゃ芯から凍えたこの体を暖めることができないよ!」
「仕方ないなあ、もうちょっと強めにしてやるよ」
渋々カルシファーが大きく燃えると、しめたとばかりにハウルはぐっと手を翳して、
頬を緩めている。
「おや、鍋が。何かあるのかい?」
「ホットミルクよ。まだ残ってるから、飲んだら」とソフィーがカップを取りに向かおうと立ち上がりかけたところで、
これでいいじゃないかとソフィーの飲みかけのカップを仰いで、次の瞬間噴出して絶叫した。
「熱すぎる!喉が焼けるじゃないか!!」
「湯気立ってるの見れば熱いって分かるじゃない!」
「冷ましておいてくれたっていいだろう」
「そんなの知らない!」
始まった馴染みの些細な口論を二人はうろんげに眺めながら、仲がいいなあと痴話喧嘩をカルシファーは嘆息交じりに、マイケルは欠伸交じりに聞き流している。
「………ああ、でも」
「どうしたんだよマイケル。犬も食わねえってか?」毒づくカルシファー。
「違うよ、ただなんとなく」
幸せだなあって思って。
マイケルが照れくさそうに小さく呟いた台詞は丁度間の悪くもソフィーとハウルが互いに息をついた休止 だったようで、上手く耳に届いたらしいソフィーとハウルは顔を見合わせて変な顔をした。
止んだ嵐の原因が自分の言動のせいだと察しがついたマイケルは、気にせず続けてくださいと身振り手振りに道化のようにリアクションを起している。
視線は絡んだまま、ソフィーとハウルは先ほどとは一転、唇をわなわなと震わせてやがてぷっと吹き出し、腹が捩れるほど快活に笑い出した。
ひたすら困惑顔を決め込むマイケルと不思議そうなカルシファーに、二人は涙交じりの目を向けた。
「…そうかも、ね」ソフィーが笑みを造ったまま言った。
「そうなんじゃないかなあ」
ハウルは冬から春に季節が上ったような親しみの笑顔を浮かべると、マイケルの頭に大きな手を降らせてぐしゃぐしゃと髪を撫でた。
「僕たちはみんなどこか出来損ないだけど、家族だからね。幸せなのが似合っているのさ」








fin./春寒



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既に「君と僕の〜」タイトルコールを裏切っているのですが…書きたかったのです。(笑)
ひたすらほのぼのを目指しました。
マルクルにしようかマイケルにしようか迷いましたが、マーサを出したかったので原作仕立てに。
ほんとに、動く城はみんな家族ですよね。読んでて楽しくなります。

04.12.21