馴染み深い埃っぽい匂いは今は一番につんと鼻腔をつくことはない。
ハウルはぼうっとしながら目を開けて、豪奢な天蓋からお気に入りの蜘蛛がぶらんと垂れて器用に糸を巻きなおしていくのをまんじりと見つめながら、まだ寝起きで霞むサファイアの瞳を両手でごしごしと擦った。
「むー……」
半裸のままの上体をなんとか起して―――――また力尽きたように多大な音をたててベッドに沈んだ。
ソフィーが干した布団はふかふかで日なたの匂いがするシーツには魔力でも宿ってるんじゃないかというくらいに睡魔の虫が潜伏していて、僕をこんなに熟睡させるんじゃなかろうか。
寝心地のよさにもう一眠り、愛しい妻の寝顔を一目窺おうとごろんと寝返りをうって縮こまると、
「あれ…」
眉目が寄り、最上だった機嫌が一気に奈落の底まで落下していく。
隣の空間に手を伸ばすと、既に冷え切っていて彼女の体温の欠片すら感じられない。
手入れの行き届いた散らばる金髪は昼の光にも艶をたたえ、すずらんの上品な香りが後尾を引くハウルの寝姿はそれだけで女性の黄色い悲鳴を得るに十分だったが、明白すぎる彼の温度低下と強烈な不の魔力の発散には、お気に入りの蜘蛛もするすると慌てて逃げ出した。
「なにそれ」
不機嫌な声音が寝室に木霊する。
よく耳を澄ませてみれば階下からは真昼前に洗濯物をと動き回るソフィーの忙しない足音が聞こえ、マイケルの依頼人を受ける様子や合間、ソフィーに頼まれて掃き出す箒の音が耳にできただろうが、ハウルにとっては問題ではない。時間もソフィーの都合も眼中にはなかった。
「なにそれ。…なんで僕一人なの」
シーツを鼻まで引っ張り上げて横になったままベッドに埋もれる。
瞬く瞳は拗ねきっていて、声はソフィーが聞けば笑い出しそうなほど弱々しく、口元は引き結ばれている。
昨日は確かに王室付き魔法使いとなってから王室に泊り込むことも多くなったり、サリマンと夫なんたるかについて愚痴をごぼしながら何が哀しくて花のないむさくるしい部屋に篭りきりで王様の要請をこなしたり、進言したり、請願状書いたり、とにかく多忙を極めている。
ようやく帰ってこれたハウルはふらふらで、遅くなると連絡を入れたのですっかりハウルのベッドで眠りこんでいたソフィーの隣に滑り込んで、虚しく返事もしないソフィーの横で寂しく睡眠を貪っていた僕が目覚めすら一人。
空ろな瞳が虚空を彷徨い、右往左往するも求める女性の姿はない。

「…ソフィー」
小さい呼び声。
「……ソフィー」
少しだけ大きくなる呼び声。
「ソフィー!!!」
唐突なハウルの大声に階段下でガタンとバケツが転がる音がした。
「いいから早く!なんでもいいから来て!!」
取り乱したハウルはぐしゃぐしゃと金髪をかき乱しながら絶叫すると、耳馴染みの良い罵声と荒い足音がだんだんとボリュームを上げて近づいてくる。
ハウルは瞼を閉じた。
魔法で城中の視界を脳裏に張り巡らし、ついにこちらへ向かってくる女性の足を射止めた。
徐々に視点は木目をどたどたと踏む足元から上へ、やがて膝、そして下腹部辺りにまで上がる。
足音は寝室へと確実に接近している。
視点は胸辺りをすぎ、ようやく首を辿る。もう彼女は目前だ。
「なんなのハウル!!驚いて水こぼしちゃったじゃないの!!」
バタンとハウルの叫びに負けぬほどドアが巨大な音をたてて開放され、ついに眉間を怒らせた彼の妻が昼の光の中から現れた。
ハウルはあれほど誘惑されていた睡魔も容易く振り切って、勢いよく跳ね起きる。
「ああソフィー!!」
涙すら滲ませたハウルはなりふり構わずシーツを足蹴に床を駆けると、瞬時に顔を沸騰させたソフィーの言葉を待たずに小さな彼女に抱きついた。
「な…ハウル!?」
「寂しかったんだよソフィー。どうして僕を一人にしたんだい?」
なぜか面持ち渋面できつすぎる腕の中でもがくソフィーを気遣う余裕すらないようで、母親に甘えるように頭を垂れて熱をもった頬に擦りより、軽く口付ける。
ソフィーはソフィーで形の良い鎖骨やら生身の肌やらを押し付けられて大恐慌に陥っている。
そして何よりも大問題なのが、
「ハウル!!」
ソフィーは目を瞑ったまま、ハウルの一切の干渉を拒絶するように叫んだ。
「服を着て頂戴!!あんた全裸なのよ!?」
はた、と子供のようにきょとんとしたハウルは、腕の力を緩めるもソフィーの肩を抱きこんだまま、俯いて自分の身体へと目をむける。
「あれ。僕、服着てなかったのか」隠す素振りもなくまたソフィーの背に手を伸ばしたので、さすがの彼女も顔を真っ赤にさせて離れようと強気に抵抗を試みる。
「淡々と言わないで!!着なさい!ほら、出してあげるから!!」
「なに、変な気分にでもなっちゃう?」
これまでかとばかりに晒される骨ばった肩にさらりと金髪を零し、小首を傾げて笑う美青年に、ついにソフィーは堪忍袋の尾がぶちんと千切れた。
「バカ!!」
他人も顔を顰めてしまうほどのばちんと痛そうな張り手が飛んで、よろよろとするハウルに手早く距離をとったソフィーが夫に服を投げつけて息絶え絶えに肩を揺らす。
「なんでもいいから早く着なさい!!」
「…わかったよー」
痛くもないのに嫌がらせかはたまたからかいのつもりか、ワザとらしく鼻を擦りながらしぶしぶ下から身に付け出すハウルは、「その代わり」と二の句を継ぎで条件をつけた。
思わぬ反論に、まだ火照る顔を仰ぎながらなるべく平然を装いながら何よと鼻を鳴らすソフィーに、ハウルは憐れっぽく微笑んで言った。
「あんた、まだここにいてよ。一人は寂しいんだ…」







手探り ひとり/fin.