「将臣くーん」 先ほどの修羅場とはうってかわった能天気な声が、教室に戻った将臣を迎えた。 窓際、一番後ろの席に望美が座っている。 放課後一人、将臣の帰還を待って居残っていたのだろうか。 「おう、望美」 今日は待ってろなどとは言っていないのだが、いやいつも何もいってないか。 まあいいや面倒くせぇと、気にせず望美の元へ、けだるげに歩み寄っていく。 二人にとっては約束があろうがなかろうが関係ない。 都合が会えば一緒に帰るというのが、昔からの慣わしのようなものであり、いちいち気に留めるほどのものでもなかった。 「おう、じゃないよ!遅いっ……!!!」 あれ、と望美を見やると、あからさまに不機嫌面をしている。先ほどとの空気の温度を比していうなら能天気といえるかもしれないが、現状でそうはいえなかったようだ。 「は?なんか今日あった、か?」 「あったよ!」 首をかき、本気で忘れている様子の将臣に、望美は頬を膨らませて反論してくる。 どうやら地雷を踏んでしまったらしく、本格的に機嫌を損ねてしまった。 まずいとは思うものの、いくら記憶を手繰っても放課後の予定は空のまま埋まらない。何かあったっけか。 唸る将臣に、益々不機嫌になり、眉間のしわが深くなる。苛立った望美は、ほとんど叫ぶようにして言った。 「奢るっていったじゃない!カレー!」 「あ」 そういえば昨日の昼休み、眠気にたゆたいながら、ぼんやり望美の話に相槌をうっていた時に カレーの話をしていたような気がする。いい加減なノリで承諾したのだろう、思い出したとはいえあやふやな記憶しか残されていない。 「あ。じゃないよ!人が折角お腹すかせて待ってたのに!」 「あー…忘れてたわ。悪い」 「もう。あれ?ていうか…何?そのほっぺた」 今更、頬の異変に気がついた望美は、彼女の席傍までやってきていた将臣の上着裾を、上目遣いでくいくいとひっぱる。 意を介した将臣は机に手を突き、腰を屈めると眉を顰めた望美がなんの躊躇いもなく、手のひらを赤くなった頬に滑らせた。 「いたそうだね」 「あー……まぁな」 えーと、どう繕おうかと思案する。まさかさっきまで、女と屋上で戯れていていたんだけども、 お前が原因で嫉妬されて、フラれついでに殴られました、とは口が裂けても言えないし、言う気もなかった。 だから例えどれほど望美が微妙な顔をしていても、誤魔化すより他なかった。 「なんでもねえよ」 「なんでもないわけないでしょ、腫れてるよ。ちょっと」 逃げようとも思ったが、存外頬を摩る細い指が心地よくて、そのまま身をゆだねてしまう。 息がかかるほど間近にある望美の顔を見る。成長して大人びてはいるものの、昔から、根本的にはなんら変わらない彼女に安堵した。 もし自分のように望美が変化してしまっていてそれを知ったら、きっと衝撃を受けるだろうと思う。 逆の立場を考えれば、その想像は容易くついた。だから、噂で望美が何を知っていようと、女がらみの悪行についてはシラを通す気でいる。 一方の望美といえば、おそらく将臣の女癖の悪さがたたって、やられたものであろうと直感的に理解していた。 そうであれば先ほどの災難とも辻褄があう。 だが幼馴染としては、相手を大事に思っているがゆえに、将臣の色恋沙汰に首を突っ込むことができない。 そもそも不慣れな分野に、足を踏み入れようという気になれなかった。 加減が分からず、不用意な発言で傷つけてしまいやもしれないから、ひたすら将臣の心配に徹しようと、望美は思った。 いつだって望美は基本的に、将臣の味方なのだ。 なんでもない風を装い、確認しても支障のない範囲で望美は尋ねた。 「……彼女さんにやられたの?」 「………あぁ」 将臣は、予想のついていたらしい望美に内心驚いていた。というか、何故彼女に『さん』づけなのだろう。 思わず訊ねようとしたが、何故か望美が物憂げな顔をしているので一先ず茶化すのを忘れ、 いつものように頭の上に手をのせて宥めた。髪をゆっくりとかき回す。 「どうした。なんでそんな顔してる」 「……将臣くんさ。いっつも、彼女が出来たとかもだけど。どうして教えてくれないの?」 思わぬ発言にしばし瞠目し、髪を撫でていた手が止まる。しばらくして、微笑みながらなるべく軽く答えた。 「お前が聞かねーからだろ」 「何でいっつも聞かなきゃいけないのよ。言ってよ。そんなのわかんないもん」 「だってさ。いちいち面倒くせーし」 それも嘘ではないが、ただ単に、望美に面と向かって別れると分かっている、恋人だかなんだか判然としないような女を紹介する気にはなれなかっただけだ。 そして何より、異性関係を極力知られたくなかった。 長年続く彼女との近すぎる、恋人でも親友でもない不自然な距離は、あまりにも居心地が良すぎた。 もしも悪行が望美に晒され、幻滅されでもされて余所余所しくなりでもしたら、今ある関係性は失われてしまう。 考えるだけでも肝が冷える。望美が、起こしにこない朝、望美と帰らない夕方など、喧嘩とイレギュラーな時以外では経験したことがない。 将臣の気も知らず、俯いたまま手を払いのけた。 「なによ!」 「いでっ」 将臣の額へ衝撃が走る。痛みにむっとして見返すと、望美がとても微妙な表情で笑っていた。 「でこピン?なんで」 「正義の鉄槌っ!」 「は?」 「酷いこというからだよ!」 なんとかこらえていた言葉尻に、怒気が発露した。 「んな怒るなよ。…ほーら、そんな顔するな」 「もう。見ないでよ」 拗ねた望美は、黙り込んでしまう。将臣は引いていた手のひらを、垂れたままの頭に置いた。 ぽんぽんと、撫で付けてみる。先ほどのような拒絶はなく安堵していると、小さく望美が呟いた。 「寂しいもん。私、将臣くんに彼女できてもいっつも知らないなんて。 そんなに会わないわけでもないじゃない?朝とか帰りも教室でだって。……結構顔合わせるんだし、言ってくれないの、なんでかなって思ってた」 「なんだそりゃ。お前、気にしすぎ。単に話題に出ないだけだろ」 「でもいってほしいの!」 笑いながら、将臣は同時に心の中では望美に問いただしたい思いで飽和していた。 その『寂しい』は、一体どういう意味合いの『寂しい』なのかを。 「ね。今度は絶対いってね」 「ああ、…覚えてたらな」 眦をつりあげて腕をつかみ、糾弾する望美に必死さを感じ、将臣は苦く笑んだ。制服のポケットに手を突っ込んで、 望美の机に浅くかけた。 一先ず約束をとりつけて落ち着いたらしく、椅子の背もたれに身体を沈ませている。 「でも。ほんとに彼女と長続きしないね。私が知ってるだけでも、もう5人目くらいじゃないの?」 「かもな。覚えてねーよ」 望美が知らないだけで、確実に5人以上はいたが、あえて補足するつもりはない。 したところで望美の不思議な『寂しい』を増幅させてしまうだけであろうと安易に予想がつくし、 女性遍歴を暴露したところで事態の好転が望めるはずはない。今でさえ、浮かない顔をしている。 「彼女、あんなに綺麗な人だったのに」 「……お前なんでしってんだよ?」 名前だけならともかく、顔まで知っているとは聞いていない。注意を払い、望美に関わりのない女とばかり関係を 持つようにしている将臣にとって、その事実は正に青天の霹靂であった。 一気に低くなった声に、望美は怯んだ。 「な、何怒ってるの?」 「怒ってねーよ。ただ名前知ってるくらいなら分かるさ。美人だなんだの言ったって、あっちは上級生で、しかも女だぜ? わざわざ確認でもしない限りは、わかんねーだろ後輩には。興味本位で見にでもいったのか?」 矛盾に満ちた言葉だと、自覚しながらも止められない。将臣自身、興味本位で他人の彼女をちらとでも確認 したことがある。もしくは、将臣が知らないだけで意外と有名な女だったのかもしれない。 幾らでも、望美が別れた女を知る可能性はある。分かっている。これは、動揺を隠すための反動で、見当違いな八つ当たりだ。 「だって」 「なんだよ。いえよ」 こちらを向かないまま語気を荒くする将臣に、本気の怒気を感じ取って肩を竦ませる。 昔からそうだ、自分は気づかない間に、彼を追い詰めて追い詰めて、こうして本気で怒らせてしまうのだ。 全くの無自覚に。 もはや追求からは逃げられないと観念した望美は、少しでも重い空気を払おうと、新鮮な空気を求めて窓の外に目を向けて言った。 「言いたくなかったんだけど、気にするかなって思って。――さっき、きたよ。先輩。私に会いに」 将臣は目を瞠った。 今しがた、他の女の変わりにするなと彼に詰って別れたのだ。その直後に接触して、良い事態が起こるはずもない。 将臣は舌打ちし、苦々しげに重い息を吐いた。 「お前。なんか、されてねーよな?」 「あー。うん、えと。されては、ないけど。ないよ?うん」 唐突に目は泳ぎ始め、語尾もなにやら疑問符が付いている。やはり何かあったのだ。 将臣に、ある可能性に思考がたどり着き、緊張に背筋が寒くなる。望美にひた隠しにしている自分を知られでもしていたら、一体 どう接すれば、いや、どう誤魔化せばいいのか。冷静を装ってはいたものの、相当混乱していた。 「暴言とか、は、かれたか?」 「え?うーん、そんな……大丈夫だよ!」 望美は笑顔で答え、胸の前で両手を小さくふって大事のないことをアピールしてみたものの、実際、将臣の予想は的中していた。 そして、それは今に始まったものではない。 彼と別れた彼女の中には、わざわざ望美の元を訪れてあんたのせいで、「あんたがいるから彼が私をみてくれない」、だの、 「幼馴染特権利用した嫌な女」だの、心無い言葉を吐き捨てる者がいるのだ。 先ほど別れたらしい彼女も、その一人であっただけの話。だから、今更告げ口をするような真似などしない。 彼に、迷惑しているというならいうで遅すぎるし、したところで、乗り込んでくるほど勇ましい彼女らだ。火に油を注ぐようなもので、更なる事態の悪化を招くだけであろう。 望美はいつもと同様に、何も言わず相手の罵声を我慢すればいいのだ。そうすれば、事は往々にすんでいくのだから―――。 決して気の弱くない望美が、やって来る迷惑な嵐に反抗もせず、黙って受け止めるというスタイルをとっているのは、 過去に一度だけ、「私はただの幼馴染で、将臣くんとはなんともない。気になるならできるだけ将臣くんとは離れるようにする」、と 本音と配慮を示し、相手を納得させたというのに、事態を悪化させてしまった一件があるからだ。 諭したそのたった2日後に再び、鬼のような形相で望美の前に現れたかと思いきや、有無を言わさず張り手を食らわされたことがあった。 「嘘つき女!だまされた!」という、見に覚えのない暴言と頬の痛みを残して、彼女は泣き去っていった。 望美なりに、なるべく将臣には必要以上に近寄らないように精一杯気を使い、努力したというのに、どうやら不安を解消するには至らなかったらしい。 この一件で懲りた望美は、理不尽に怒鳴りつけてくる相手に反抗することをやめ、 罵声も甘んじて受け入れるようになった。そもそも相手はただ不満の捌け口にしたいだけであり、極論では、望美自身の意見を期待して会いにくるわけではない。 気の高ぶっている上、なぜか鼻から望美を恨んでいる相手に対していくら誤解だと必死にいっても暖簾に腕押しだと、遅ればせながら理解したのである。 「来たけど、そんな酷いことされなかったし」 「やっぱされたんじゃねーか」 「あ」 殴られなかっただけよかったと、程度の軽さに安堵していたせいで、自分で墓穴を掘ってしまった。 慌てて口を噤み、ちらと様子を窺うと、目を細めた将臣と目があった。 先ほどの、望美に対する剣呑な態度は消失していた。いつもの顔をした幼馴染が、ひどく優しい手つきで前髪をかきあげてくる。 指の間から乾いた音をたてて、額に落ちた。 「ごめんな。そうやって、濁さなくていいから。そうか。ったく、ロクなことしねーな。あの女……」 穏やかであった将臣の表情が、段々と普段見せない形相へと変化していく。望美は不穏な空気を感じ、恐れおののいた。 足を何処かへ向けようとした将臣の腕を、立ち上がって咄嗟に引き止める。 「やめてよ!」 「なんでだよ!お前は全く関係ねーのに、どうせひでぇことでもいったんだろ」 「あ〜っ。もういっちゃうけど、……ちょっと酷いこといわれたよ!!確かに!!!でも、そんなことしたらまたややこしくなるからやめて!」 必死な望美からの嘆願に、少し冷静さを取り戻した将臣は立ち止まり、上からじっと見下ろしてくる。 「…………お前は、それでいいのか?」 「うん。いいから。もう済んだんだもん」 「怒鳴られたんだぞ?とばっちり食って」 「うん。分かってるよ。でも、いいの。ありがと」 「…………」 「…………」 しばし、目を細めて互いを見詰め合ったまま膠着状態が続いたが、やがて将臣が折れて先に目線を外す。 乱暴に、藍色の髪をがしがしと掻いて嘆息する。将臣は、望美を尊重し、それ以上追及しようとはしなかった。 「そうか。迷惑、かけたな。今度からは女ちゃんと選ぶわ(もっとドライに付き合える相手を)」 「……なんでそうなるの?そうじゃなくて。将臣くん、もっと大事にしたほうがいいよ。彼女」 将臣の女に対する冷たい反応に戸惑っている気配が伝わってきたけれど、そ知らぬふりで返答する。 「あー?ああ。そうだなー」 気のない返事に、望美はますます困惑し、眉を顰める。 女としての視点から見れば、たとえ相手が『将臣』であっても、『男』から発せられる言葉としてはおいそれと看過できない発言であった。 彼女は大事にするべきで、好きであるべきで、だから、付き合うことで相手に『彼女』という身分を与え、『彼氏』という身分が与えられるのではないのか。 もしそうでないというならば、いっそ付き合っている意味などあるのだろうか? なぜか恋愛に関しては、やたら不誠実な印象のある(大抵は噂で知るし、 将臣は話したがらないので、彼女からのクレームしか実態を知るすべはないけれど)幼馴染。 家族で、兄妹のような、双子のような。生まれてきたときからずっと傍にいた、望美にとって、将臣は、譲も勿論だが――――とても頼りになる、大好きな人だ。 誰よりも身近にいるから、よく知っていると自負できる。 将臣は面倒くさがりやで忘れっぽいけれど、誰にでも面倒見のいい、とても優しい人だということを。 だから、望美に対しての普段の態度と、今しがた見せ付けられた、噂の、彼女に対するドライな対応とのギャップに驚きを隠せない。 もしかしたら、有川将臣という人間がもう一人いるのだろうか? 酷い人ではないはずだ。まさか、望美を罵っていった彼女らが口にするような。 まさか。ね。信じたくはなくて、一縷の望みをかけて恋愛沙汰でも、普段の彼を見つけようと躍起になった。 「……ね、一応。好きなんでしょ?好きだから、付き合うんだよね?」 「んー……?んー」 「どっちよ。その答え」 「俺自分からコクったことねぇし」 急にぞんざいな態度に転じた将臣は、伸びをして望美に背中を向ける。 気のせいかもしれないが、どこか拒絶されているかのような印象を受けて少し寂しさを感じてしまう。 「で、でも。いいなって、ちょっとは思うから付き合うんだよね?」 「そりゃあな。……でもさ、女と男じゃ、『いいな』ってのは、かなり意味合いが違うと思うぜ?」 「なんで?」 「男はバカだってことだよ」 将臣のいう、男における『いいな』と『好き』は、違う意味合いを含むことを、望美はいまいち理解できないらしく、呆けた顔をしている。 男は、女よりもセクシャルな部分で『いいな』と異性を感じる場合が多く、 それを望美のいう『好き』、と摩り替えて付き合うバカだって将臣の知る中にも大勢いる。 そして―――将臣自身が、正にそのバカ野郎であったけれど、将臣が、特別バカ野郎というわけでもない。 健全な男子高校生ならば、エロ本を所持していないなど皆無に等しい、などという現実を顧みれば、倫理観の持ちようにも左右されるだろうが、 所謂『いい女』に言い寄られて、彼女のいない男子高校生が拒絶する理由などあるだろうか。 一時でもいい、いっつも一緒にいなくていいから、と多少でも顔の良い威勢に食い下がられてしまえば、いくら面倒くさがりな将臣とはいえ、 興味が湧くし、悪い気はしない。そして『いいな』で付き合って、フラれるか自然消滅する。 引きとめようともせず破局を繰り返すのは、鼻から将臣自身にその気がないためである。 『いいな』と『好き』の違いにより、どのような結果を招くか、実体験で語るのだから、一応信憑性のある発言ではあろう。 難しい顔をして、望美は恨めしい目でこちらを見上げてくる。 「……意味わかんないよ」 「まあ、お前はいいんだよそれで」 性差だけではなく、おそらくは経験地の浅さが理解を妨げているのだろう。そして将臣は、それでいいと思っている。 身勝手な話だろうけれど、望美は、そうであってほしいとも。 「……もうこの話、やめようぜ。価値観の違いもあるだろうし、言い合っても不毛だろ。嫌いじゃないから付き合うんだしさ。今回も、 ただそりがあわなかったってだけの話だよ。そんな珍しい理由でもないだろ?」 「そ、そういう話、私も聞くけど。でも、彼氏いたことないから分かんないなぁ。そういうの……」 制服につっこんでいた将臣の腕が、一瞬だけびくりと震えてしまう。望美を横目で盗み見て、気づいていないことを確認し、息をついた。 不意打ちに、自分の与り知らぬ所で男をつくっていたといわれでもしたら、動揺は腕が震える程度ですまなかっただろう。 将臣の小さな葛藤など知る由もなく、どこかしょ気た様子で望美は話を続けている。 「……んだから、彼女。大事にはしたほうがいいよ。私だって、気くらい利かせるから。帰りとか、いってくれれば他の子と帰るし……」 「いいんだよ。俺がいいんだから」 「でも。将臣くんばっかりよくても彼女がよくないじゃない!」 字面だけみれば覇気のある言葉でありながら、肝心の発言には勢いがまるでないため迫力が乏しい。 将臣には望美の本心が、雨の中で鳴く子犬のような顔から透けて見えるようだ。 甘えていたい、でも将臣くんは女の子と付き合っていいんだよ。いいんだけど、甘えられなくなるのいやだよ。 でもでも――――以下略、とかを、考えているのではないだろうか。昔から甘えたな彼女で経験値をつんでいる。そう大きく外れてはいないだろう。 甘えたがる望美というのは、嫌いではない。そう無条件に甘やかしてはいないけれど、結局は望美に意思決定を譲ってしまうのだから、 なんだかんだでやはり甘いのだろう。しかし、今回ばかりは彼女の意に沿えない。 気がつけばいつの間にか出来上がっていた自分の気持ちだけは、こればかりは、望美に譲ってやるにしてもその方法すら検討がつかない。 「お前はそんなの気にしなくていいんだよ。な」 「でも」 「でもじゃない。習慣はんな簡単に抜けねーんだよ。お前とのが楽だしさ」 お前は、俺と帰りたくないか?と訊ねれば、望美ん、んん。と黙ってしまう。とても分かりやすい、顔に出る。 そしてそんな望美が、将臣は嫌いではないのだ。 「……ほら、んな難しい顔すんなよ。笑え笑え」 むに。柔らかい頬を引っ張ると、肉が薄いせいかやたらと伸びた。 「ぅはにひよぅ〜ころもあふふぁいして〜」 将臣は、望美の笑顔が好きだった。幼い頃はよく、あっちが首を突っ込んできて(というか望美は大半巻き込まれて) 泣かせていたけれど、いつだって最後には、こちらまで笑ってしまうような、明るい笑顔をみせてくれた。 もしも、二人の関係性を崩すような出来事が起きたとしても、望美はいつもどおりに、好ましい笑顔で笑いかけてくれるのだろうか。 17年間、親しみ続けた安穏が瓦解してしまいはしないだろうか。 例え様もない衝動が心揺さぶるとき、いつも不安に翻弄される。嫌な未来ばかりが、やけに現実味を抱いて頭を駆けた。 踏み出せない、動き出せない。望美を女として認識してしまうときは、いつもなら手に取るように理解できる彼女が途端につかめなくなる。 将臣は、痛くない程度に摘んでいた肌を離した。望美は痕のない頬を摩って、何か不満じみたことを呟いている。 「そろそろ帰るか。カレー食べに行くんだろ」 今日は奢るぜ、迷惑かけたしな。明るく言いながら、脇にくたびれたショルダーバックを挟み、 とっとと教室を出て行こうとする将臣の後に、望美は焦った小走りで続く。 ふと違和感をおぼえ、将臣は隣を見た。 廊下に出てもなぜか、望美の定位置は空白のまま。不審に思い、立ち止まって後ろをみると望美が俯き、思いつめていた。 「なんだよ。あー、まだなんかあんのか?」 「まさおみくん」 「ん?」 「手、つないでいい?」 将臣は、は?、と口を開ける。 「言わなくても勝手に手とって引っ張ったりするくせに。今更なんだ?購買人多いから、コロッケパンあるかみてくれとか いって、くだらねー用でも人がねてんのに連れてくじゃねーか」 「もう、茶化さないで!……あのね」 言いにくそうに、胸でバックを揉んでいる。やがて望美は顔を上げると、たどたどしく言った。 「あのね……。私も、そういうの、気、つかわなきゃってほんと。思って。彼女できたら、気を使うとか、 今までそうしてきたつもりだったのに、足りなかったって、気づいたの。自分で言っててショックだったの。 今更やっと自覚して。しちゃったら、もう気軽に手つないだりできないなって思ったの。私、無神経だった。今まで」 それだけ。ごめん。 言い終わると、再び俯いてしまう。将臣は無表情で、望美を見下ろしていた。 一体何いってんだろう、私。支離滅裂だ。日本語になっているのかどうかすら怪しい。 自分がもたらした沈黙を払おうと口を薄く開こうとするも、幼馴染に対する甘えが声音に滲み出てしまいそうになり、唇を噛んだ。 望美にしてみれば将臣との接し方を抑えたつもりでも、将臣の彼女達から見ればそれは許容できない 域にまで踏み込んでいたのやもしれない。 傷つけていないと開き直っていたけれど、彼女らの言うとおり、幼馴染の笠を着た単なる傲慢さを武器に、 開き直っていただけだったのかもしれない。否定しきれない自分がいて、それがたまらなく嫌だった。 抑えなければならないと分かっているのに、今だけだからと昔と同じ感覚で甘ったれてしまう自分が確かにいる。 将臣は、女の子と付き合ったりと成長を遂げているのに、比べてなんて私は幼稚なんだろう。 恥ずかしさと自己嫌悪の渦にのまれている望美に、静寂を破り頭上から声が降ってきた。 「―――もう、俺とは手ェつなぎたくねぇの?」 固い声に、望美はばっと顔をあげて一気に詰め寄った。将臣は彼女の気迫に驚いた顔をしている。 「そんなこと!ない、よ。身の程をしっただけ、で……」 暗い気分に足をとられ、トーンダウンしていく語調。 「気にすんな。さっきもいっただろ。さ、いくぞ!」 バックを抱えている望美の左手をとると、廊下を一気に駆け出した。 驚いた望美の足が一瞬縺れるも足をとめずに、上から力任せに引っ張りあげて体勢を立て直させて、走る。走る。走る。 延々と続く廊下には、横一列に並んだ窓から燃えるような赤が注ぎ込み、二人の影を床に色濃く際立たせている。 望美の小さな手を、将臣の温かく、固くて大きい手が、しっかりと手のひらを包んでひっぱってくれる。 沈んでいた気分が次第に晴れ渡っていく。弾んだ息もそのままに、望美はなぜだか急におかしくなって笑い始めた。 「やっぱ、私達はこーでなくちゃね!」 握られてばかりいた手を、今度はこちらから握り返した。少し強いくらいの力をこめて、骨っぽい将臣の指の隙間を埋める。 「もういいよ!私達は、これでいいんだよ!!自然なんだよ!わかってよもう!」 「誰にいってんだお前!」 将臣も笑っている。望美は、また彼の反応が、何故かやたらに嬉しくて益々高揚してくる。 「みんなに!!」 「バーカ!」 「なにおー!アホー!」 行程をショートカットし、鍵があきっぱなしの非常扉を通って、裏庭から下駄箱に続く一階部分の非常口と連結している 外付けされた非常階段を駆け下りる。 前方の低い位置で、将臣の短い髪が軽やかに風に靡いていた。寝癖だかスタイリングしているんだか分からないけれど、 昔から見慣れているもので、彼によく似合っている。 強い風が非常階段にふきあがり、スカートが少しまくれあがったかもしれないけれど、構いはしない。 放課後なのだから、裏庭から都合よく下着をみてしまう者なんていないだろう。何故だか全く気にならなかったので、いないことにした。 たたたたたた。けたたましい足音のリズムに掻き消すように、将臣は息を切らせて言った。 「また俺の負けだな!」 「え?なんて?」 「なんでもねーよ!」 曖昧な関係に甘んじることをお前が望むのなら、暮れ行く時の中で最低な男として、まだ足踏みしようという決心がついた。 二人には時間など、これからだっていくらでも用意されているのだから、焦る必要なんてない。 今はまだこのままで、望美があんまり幸せそうに笑うから。 fin. *** 飛ばされる前のお話です。 |