あのとき、あの場所で、走らなかった理由
「先輩」
屋上で一人、毎日毎日飽きることなく、兄を待ち続ける思い人に、譲は十分に、おそらくは
数分―――じっと背中をにらむように固まったまま、迷いに迷った挙句、声をかけた。
屋上をぐるりと囲む鈍色の手すりに重ねた両腕を組み、その上に顎を置いたまま夕暮れを眺めていた
望美の肩が、ぴくんとはねた。
「………譲くん?」
振り返らずに、望美は言った。
「……はい」
「だよね。ごめん」
十数年来見知った人間の声である、わざわざ名前を読んで確認せずとも当人であると分かるだろう。
だというのに、わざわざ確認したのは、望美が人の気配に過敏になっているせいだ。
そして、振り返らなかった理由は。
もしも、もしも。兄さんだったときに、多分、見られるだけの顔を整える準備するため。
または期待外れだったときに、落胆した顔を見せて、相手を不愉快にさせないため。
(そうでしょう?)
それを声にせず、譲は風にたなびく長い髪を見つめる。
屋上に一つしかない、出入り口のドアノブに手をかけたまま、近くて遠い距離を保ったまま、
真っ赤に燃える空の中に、ぽつんと一人佇む望美を。
寂しいのだろうか、苦しいのだろうか。あちらでの世界、源平合戦の最終決戦前夜に、
夢で会って兄と約束したのだという。
―――また会おう。懐かしい学校の屋上で。
背を向けられてしまったから、一方的な約束だけどね、と彼女は笑っていた。
その時、譲は話を聞きながらも、他方で星の一族の能力が、兄に『夢を繋げるもの』として発現した理由をなんともなしに考えていた。
少なくても、あちらの世界に行くまでは、兄から不思議な夢の話など聞いたことはなかった。
とはいえいい加減な人だから、夢なら夢、ただそれだけだと何も考えずに片付けていたか、
もしくは夢を誰かと繋ぐには、『条件』が揃っていなかったから、能力が発揮されなかったのかもしれない、
とも、無感情に想像した。
あちらの世界での夢は、『会いたいと相手から思われているから、夢を見る』のだという。
彼女には特殊な能力はないはずだ。白龍の神子として、無意識に星の一族の能力を補助した可能性は考えられるが、
夢と夢、人と人との無意識を繋ぐという、特殊能力は、神子として特に必要でない以上、あちらの世界で急に目覚めたというわけでもなかろう。
あらゆる穢れを払う存在とはいえ、夢を繋ぐ、などという能力を、白龍が与えて何かをなさせる、ということは
考えづらい。
そうなると思い至るのは、兄が先輩を思って見ていた夢に、同じ世界にやってきた望美が引き寄せられた、
という可能性だ。そして引き寄せられるにしても、異世界の理に習うならば相手が同じ思いを抱いていなければならないだろう。
彼女もきっと、兄に会いたいと願っていたのだろう。
恋愛的なそれとは、まだ気がつかなかったのかもしれないけれど、強い思いが互いを求め合った結果、
夢が繋がったのではないだろうか。
彼女を思う自身からすれば、随分ネガティブな考えだと自覚しているけれど、間近で二人を見つめていた自分だからこそ、そう
考えてしまう。先に肩を並べて歩いていく二人と、一年遅れて歩いていく自分。
二人は、ずっと昔から……。
嫌な方向に思考が向きかけ、譲は俯いて考えを霧散させた。
今考えても栓のないことだ。
それよりも、この寒々しい風に、望美を晒しておくわけにはいかない。いい加減に帰宅させなければ、
風邪をひいてしまう。
「せ……」
一歩踏み出したところで、押し黙っていた望美が口を開いた。
「私ね。将臣くんに捨てられたのかな、とか都合いいこと考えようとしてたことあったんだ」
譲は驚いて踏みとどまり、顔を上げた。望美の後姿を見やる。
「……すて、られた?」
言葉の割には、その姿も、声も、どこかすっきりとしていて淀んだ感情は滲んでいない。
「……………先輩や俺よりも、平家を選らんだ、ということですか」
瞬間、傷つけないように言葉を選ぶ努力をすることを考えたものの、相手は彼女なのだと思い至って諦めた。
傷ついて終わるような女性だったら、毎日果たされる保証のない約束を守るために、学校の屋上にのぼったりはしない。
「そう。そう感じちゃった、一瞬だけ」
「間違ってはいないと思いますよ。兄さんは勝手だからって諦めてますけど、でも、そう簡単には。こればっかりは、
上手くいかなくても、仕方ないです」
少々刺々しさのある己が発した言葉に、譲自身驚いていた。
思いあっているくせに先輩を一人にするなんて、と思う反面、家族である自分よりも、あちらの世界の家族を
選んだのだという、複雑な肉親としての思いが、燻っていたのかもしれない。
クリスマス前に、現代に戻ってきて以来、兄に関してはあまり考えないようにしていた。
白龍の配慮か、兄の存在は綺麗さっぱりと抹消されており、有川家の息子は兄弟であったはずが、
今や息子一人となっている。誰の記憶からも消された兄。
覚えていても仕方がない、こうして無性にやるせなさが襲って息がつまるから、忘れようと努力していた。
思い人が待ち続けていても、いつしかそれが当たり前の光景となり、「なぜ待つか」までの理由を考えないようにしていたのだ。
彼女の方が、よほど強かったのかもしれない。
感傷的な気分と呼ぶには、あまりにも乾いている頭に、内心失笑しつつ、譲は続けた。
「あの人は、選んだんですよ。確かに。生き方を。道をたがえてしまったんですよ俺達とは」
「そうだね。確かに、そうなんだよ。―――……でもね」
うんうんと頷いて、望美は振り返った。長い髪が一瞬、表情を隠すも、細い指にかきあげられて
凛とした顔が現れる。
「私も結局は、将臣くんを切り捨てて、戦うことを選んだんだよ。たまたま、私がいたのが優勢だった源氏で、
その中に仲間がいたってだけで。その時点で、私は私で将臣くんを切り捨てたんだよ。
もし平家の中に仲間がいたら、多分同じことをしてたと思う。
だって、仲間が死にそうな中で、私だけ都合よく『敵に知り合いがいるから寝返る』なんて、できないよ。
嫌だったら、私が将臣くんのところにいけばよかったはずだもん。そういう努力だってできたはず。
でも、……………しなかった」
夢の中でも。望美は目を伏せて、微笑んだ。
苦しそうな、胸を締め付けられる苦い笑顔だった。
「結局は、自分の都合のいい状況に相手が合わせてくれなかったから、捨てたって感傷ぶってるだけで、
酷いことしてるのはお互い様なんだよ……」
「でも。信じてるんですね」
「うん。我侭いってるの。将臣くんなら、叶えてくれるんじゃないかって」
「平家、疲弊してた。知盛も私殺しちゃったし、ロクな戦力残ってなくて……。
大体、もう還内府なんていう、偶像を。死んだ人を祭り上げてる時点で。生きてる、九郎さんみたいな人が希望を
背負わなきゃ、未来なんてなかったんだって、思う。そこでもう平家はもう負けてたんだよ。
だから、将臣くん、元々勝つ気なんてなくて。逃げるか和議しか考えてなかったんだと思う」
上履きで、望美はなんともなしに地面をいじりつつ、目線を足元に下げて丸を描いてみる。
譲は、首を傾げて頭をかいた。
「そう、なんですか?まあ……実現性の低い期待を切り捨てて、確実性を求める兄さんらしい発想ですが」
どうも望美の話がしっくりとこない。
夢の中で話し合ったのだろうか。しかし、兄がそこまで、彼女に手の内を晒して語るとは思えない。
親しい相手であっても、苦しい胸のうちを曝け出して語り、相手を悩ませる真似をしない人だ。
基本的に、自己完結型の兄が、追い詰められて渋々話でもしたのだろうか。
疑念が伝わったのだろう、望美は力なく笑った。
「そうなの。私は知ってるの。平家のこと、色々」
「結局、もう逃げるしかなくて。私、白龍に、『もしも将臣くんが、還りたいって望んだらこっちに還してあげてほしい』
って頼んだけど、それも将臣くんに伝えなかった」
「どうしてですか?間に合わなかったんですか?」
「それもあるけど。私が、現代で生きることを選んだみたいに、将臣くんだって平家で生きることを望んだなら、
やっぱり重荷になっちゃうじゃない。伝えてしまったら」
「重荷は、嫌ですか。気にしないと思いますよ。先輩につけられた重荷なら」
「そうだとしても、私は嫌なの。将臣くんが、私を自由にさせてくれてたみたいに、私も将臣くんを自由にさせてあげたい」
譲は、ただの恋人同士とはどこか違う、望美と将臣の関係を再認識した。
恋人なら我侭を言ってもいいだろう。私に縛り付けておきたい、私だけを見ていてほしい。
そういった文句だって、恋人同士ならばある程度は持っていても当たり前の感情。
望美だってもっていないわけではなかろう。しかし、二人の根柢に積み重ねられた経験がそれを、許さない節があった。
素直になればよかっただろうに。もっとお互いに。
いや、素直になった結果、どうしてもそれができなかったから、こうなったのだろう。
譲が将臣ならば、望美を離そうとは思わない。だが兄は違う。望美も違う。
各々の道はきっちり持ちながらも、肩を並べてじゃれあって笑いあう、それで自然に関係が成立していく。
だからこそ譲の知る『望美』であって、『将臣』なのだろう。
二人だけに通じる清々しさが長年憎々しくて、羨ましかった。
なんとなく、望美に返される言葉を予想しながらも、譲は訊ねた。
「自由にさせたのに、それでも待つんですか?矛盾していますよ。
………どうして待ってるんですか。帰る手段を、兄さんは知らないのに」
「そうなんだよね――。でも、将臣くんなら、私の約束、守ってくれる気がして」
「…………敵わないな」兄さんと、先輩には。
「譲くん?」
昔から、二人は変に気が合うところがあった。
別々の場所に旅行へいったにも関わらず、同じものを買ってきたり、プレゼントがなぜか同じ、もしくは同系統の
ものであったりと、不思議なほどに考え、思考が一致したりするのだ。
なんと呼べばいいのだろう。二人の絆は。
不思議そうにこちらに近づいてきた望美に、困ったような笑みを返しながら、兄ももしかしたら
意固地に、彼女の望みを叶えようと頑張っているのかもしれないと思った。
帰る手段を知らない男が、望美に背を向けた罪悪感と故郷への思慕の中で、帰還を諦めず、苦しみから忘れてしまわずに「還りたい」と願う。
そんな奇跡。
兄さんなら、やってのけるかもしれない。
「兄さん、一途ですからね」
眼鏡の奥の瞳を優しげに細めて、息をついた。
「え。えっと、なんの話?よくわかんないけど、一途って。将臣くん、飽きっぽいと思うけど。趣味ころころ変わってたし」
「一途なんですよ。だから、俺がずっとあんな思いしてたんですから」
「????」
疑問符を飛ばしている望美に微笑みかけ、肩をそっと押した。
「さ。寒いですから、今日は帰りましょう、先輩。シチューごちそうしますよ」
「わ。やったー!寒かったんだよね実は」
鼻を赤くした望美が、譲の先を嬉しそうにはしゃいで階段を駆け下りていく。
軽やかな足音を聞きながら、そっと誰も居ない、茜色に染まる屋上を振り返る。
できるだけ望美を迎えに来て、せめて気を配れる望美の健康だけは気をつけて
あげようと、そっと誓った。
fin.
あとがき
十六夜記で、望美が「捨てられたんだね」と清盛にいうシーンがあるんですが、あれが
個人的にとても嫌だったりします。
心情としては理解できるんですけど、そんなのお互い様だろうと。
諦めの悪い女が、自分の利益を守りつつ男を変えようなんてどうなのさ!ずるいじゃん!
というのがありまして。
乙女ゲーにイーブンを求めるのは、どうなの、って感じかもしれませんが、
マジなら全部かなぐり捨ててでも飛び込む努力をするべきだと思います。
将臣望美双方にいえることですがね!
でもそれができないからこそ、二人なんだと。
そんな補完として書いてみました。自分の中で十六夜記をまとめたかったっていうのもありますが。
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