その空間は酷く甘ったるかった。
紫煙がくゆる室内は意外と小奇麗であり、匂いを身じろぎで追ってみれば、元出は隣と決まっている。
もう数時間、居心地の悪さを今更に感じながら、どうしたものかとリザは寝たふりを続けながら薄目を開けて様子を再び窺う。
どうしてこんな男の元へ雪崩れ込んでしまったのか、不可解でならない。
昼間のはずがもう夕方、散乱した衣類やらが玄関から這うように続き、床に散乱する光景は三文映画そのもので、まさか自分が登場人物に踊り出ようとは夢にも思わなかったが。
ロイは裸身を晒したまま、身を起こし煙草を銜えながら夕日をまんじりと眺めている。
ふと、静まり返っていた湖面に空気を弾いた。
「…一人で、泣くなよ」
ぽつりとたった一言。
ついで彼に背中を向け、寝転がっているリザの金髪をぽんぽんと手を置いた。
リザは目を見開き、滲む熱を必死で振り払いながら、けれど唇は震えて、歯は食いしばって、身体を丸めてシーツを握りしめて。
「…うる…さいっ…やめて」
尚も執拗にロイは彼女の頭を撫で続ける。
シーツの色がみるみる濃度を増して変色していくのを片頬を沿わせた目傍で凝視しながら、噛み殺せない嗚咽を手で押さえ込むも、指の隙間から漏れる断続的な息は止め処なく。
「ふっ……うぅ…」
リザは青い目を水一杯に溢れさせて、大きな手の施しを頭部に受けながら、
様々な思いが息を吹き返し、2年間中、そしてようやく抜け出した現実の結末に対する悲哀が今更ながらに噴出する。
「お父様……おばあ様…ど、して…置いて……」
「うん」
「私、頑張ったのに…なんで?…ずっと、恐くて、でも…」
「うん」
同情じみた他人の体温が鬱陶しかったことはあったが、どうしてか彼だけは、どうしようもなくそうではないと思えて、慰める気も感じず、ただ不器用なありのままの彼本心で…この男自身が戸惑いながらも、精一杯私のことを考えてくれているような気がした。
勘違いなのかもしれない、けれど今日、あの男と小さな戦場で共に鼓動を交えた瞬間、そして無意識に抱きすくめ、抱きしめていた過去の中では酷く彼の背中は小さかった。
人二人を悠然と殺めておきながらも、瞳には――――組織の連中が持つ恨みやほの暗さとは質がまるで違う。
不思議と読み取れた彼の思考。巨大な決意と、そして些細な悲しみにリザは魅入られていた。軍に訓練され、鍛えられた指は無愛想だけれども優しい。彼女の胸中を安堵が支配し、睡魔が手を伸ばす。

「君は少し休め。我慢のしすぎだ」

うるさい。あなただって我慢しすぎて苦しそうにしていた癖に。






最終話「日溜りの影、君の手を握り締めながらたゆたう日々」







買出しに行くぞ、という声に促され、リザは昨夜ぐっすり寝すぎたお陰がやけに気だるい身体をベッドから起こし、ぼんやりと這い出てシーツ上に頭をふらふらと揺らしながら座る。
長くまっすぐな金髪は絡むことなく、熱を帯びた朝日に照らされ、艶を輝かせている。
シャワーを浴び、幾分さっぱりとしたロイは丁度バスローブを羽織り、タオルで髪の水分を拭いながらこちらへやって来ていたところで、重い溜息をついた。
椅子にかかるシャツとジーンズを彼女の足元目がけて投げつけた。
命中はせずリザに覆い被さろうと舞い上がったが、容易く彼女の手套を喰らい床に墜落する。
「全裸で男を誘うな。ちっとは自分を自覚しろ」
「え……ええっ!?」
はたとリザは自身の姿を目視すると、顔を真っ赤に染めてシーツに包まってしまう。向けられる華奢な背中からは怒気が湯気のように立ち上っている。
「へ、変態…!」
「…君は爪が甘いよ」
可笑しそうにロイが見つめる先には、前のみを隠し背中はまるで晒されたままの肩甲骨の浮いた背中が向けられていた。




**




リザがなぜだか真新しいシャツとジーンズを怪訝に着用していた。表情は不機嫌そのものである。
いつ揃える暇があったのか、昨夜中彼と共に過ごしたというのに。
リザはなんとなく不愉快になる。思い当たる節は彼が散々披露してくれた退屈紛らわしの身の上話にもあったので、それとなく予想はつくので、いや、だからどうだというのだ。私には関係がない。
大体着替えはどこですればよいのだろうと素っ裸のまま途方に暮れていた私の思考なんて、意図も容易く見透かして「私は紳士だからな」だとか相当紳士らしからぬ事を少女としておきながら、そこだけはがんとのたまい、そそくさとバスルームに篭ってしまっている。
髭を剃り、身なりを整えているらしいロイがエコーをかけて声を寄越した。
「そろそろ着替え終わりそうかい?」
「もう終わったわ」と全開のボタン、上から一つ目を留めながら言うと、ロイが「そうか」という首肯と同時。
彼女の応答からの間、1秒ないほどであったので、黙々と手元を俯いてボタンを留め続けるリザは、ロイが顔を渋くして呟いた言葉など知る由もなかった。
「…そういうのは、着替えが終わったとは言わないと思うんだがね」
リザの腹をまんじりと見つめながら、ロイは腕組んで疲労まみれの溜息を吐いた。呼応して顔をあげるときょとんとしたリザ。
「どうしました?私の支度は終わりましたが」
「ああ、もういいよ」
頭をガリガリ掻き毟りながら、投げやりにロイは呟いた。
彼女はどこか抜けている。射撃の腕は一人前の癖に、女の手腕としては三流だ。
紳士な私でなければ本当に襲われている。


壁ハンガーにかけられた軍服のズボンに片手をつっこんで、何かを握るといい加減にリザの方角へと放る。
弧線目標先は狂いなく彼女の手元へと速度を緩めて墜落していったので、リザは両手を広げて着地高地を作り上げて、肌が打たれる感覚に眉を顰める。硬質な何かが肌を弾いたのだ。
「私が車を先に吹かしておくから、君は家の鍵をかけろ」
「…は?」
「朝食分のパンを切らしていてな。買い物はそれだけだ。それに普段私は、朝は食べない」
「ちょっ」戸惑うリザに構わず、救いの手は宙にぶら下げられたまま、ロイは「頼むぞ〜」
一声で会話を断ち切ると、一方的に玄関から飛び出していってしまった。
ぽつんと一人、男の部屋で佇むブロンドの美少女は、男の行動に懊悩していた。
「どうしてあの男は、こんな簡単に私を信用するのかしら…」
普通自宅に昨日今日出会った人間、しかもなんだかよく分からない成り行きみたいなもので一晩抱いて、多少取り調べしたのみの女――――に、自宅の鍵まで預けて一人きりにして、金品が盗まれるとか良い様に利用されているだけとか、利用できるだろう物証を持ち出して
彼を恨んでいる多数の人間に売りはらうだろうとか、そういう事にまで疑念が及ばないのか。
勿論彼女はその気もさらさらなく、従属だとかへつらうだとかが軍人を毛嫌いする彼女が最も嫌悪する行為でもある、まずどう転んでも地球がひっくり返ってもあり得ないだろうとは思うのだが。
まさか、見抜いて?それとも私を買いかぶってここまで信用を?
リザは首を振って、最も嫌な展開へ思考を拡大する。
…私は甘く見られている?
しかし、心がそれを却下していた。昨夜の彼の悲しげな顔が思い出されたからだった。
鋼鉄のようにふてぶてしく、炎を操り人を容易く消し炭に変換させるだけの力を持った男が、
甘く見ている相手にこれほど隙を見せるはずはない。

「じゃあ、なんなのよ…」
手の中の鉄鍵を見つめ、いっそベランダから投げ捨ててやろうかとも考えたが、気乗りせずやめておいた。
彼女が鍵を紛失させて、どうせ逃げ場は一つしかない牢獄へ戻ったとて運命が変化する訳でもない。
ただ先手を打つか打たないか、現在においても猶予期間を寮にいるか、この男の自宅で過ごすか。差異など微々たるものだ。
最低限の荷物もわざとらしく壁際に纏めてあるのも知っている。嫌な男だ。選択肢はあくまでも私に与え続けるつもりでいるらしい。
そして大きなものは既に士官学校寮へ送られているだろうことも。
優しいのか酷いのか現実的なのかは、判断がつきかねるところである。
「私、嵌められてる気がするわ」
ぼやきながら、結局リザは玄関の戸締りを行い、地面からそう遠くない階段を下りていくとロイが車をふかせる騒音が耳障りに飛び込んでくる。

運転席で欠伸をしながらハンドルに顎をひっかけていたロイが、こちらの姿を認めると
皮肉っぽい笑顔を浮かべて、にやにやと手を振ってくる。
昨日とは違い、彼個人の愛車はごくこじんまりとしていて別段豪奢でもない。
興味がないのだろうか、中尉ともなればそれなりの地位。給料も悪くはないだろうに。
「来てくれるとは、光栄だよ。リザ」
「…そういえば、いつ呼び捨てにしていいと許可を?」
上下激しく揺らす車にむっつりとリザが助手席へ滑り込むと、ロイが躊躇なく断言したのでリザは呆れのあまりに失笑してしまう。
「私が今決めた」
「勝手すぎるわ中尉」
「ノノ!それは条約違反だ、ロイでいい」

今だけは「ただ」のロイ、か。リザは全く気の聞かない趣向におどけて笑う。
「いいわ」
思わぬ素直な感情の露出にロイはそっぽを向いて、少々頬を染める。
ガキか私は。二十歳そこそこの男が十七の少女に振り回されていることを否応なく実感して、嘆息する。






**


こじんまりとしたベーカリーの店にロイは車を横付けた。
予想以上に陽は昇っていたようで、それでもちらほらと客足が見受けられる。
ロイと共に降り立ち、からからと鐘チャイムの鳴る扉を開けながら、彼は胸を反らせて言う。
「ここのパンは美味いんだ。いつも部下に買いに行かせている」
「…自分では買いにいかないの?」
出入り口付近のバスケットを手に取り、ひょいひょいと鉄製のはさみで掴んでは投げ入れていく。
「夜勤詰やら、面倒な時はね」
君はどれがいい、と唐突に訪ねてきたので、リザは適当にアレ、と指差すと掴んでバスケットに投入する。
ぼんやりと無造作な彼の手を何ともなしに眺めていると、手の甲に走る無数の傷が治癒力に縫合されることなく生々しい痕として血管の通う迷路に浮き出ている。
酷い傷だ。軍人の手というものは、しかしそれにしてもよほど無体に使用しているのだろう、自身の肉体を。
そこで、ふとリザは思い出した。昨夜、朦朧とする意識の中で彼女が息を呑んだことを。
「…体」
「ん?」
フランスパンを掴んだところで、返答するロイはいまだもくもくとパンを積み上げている。面倒臭いことは嫌いそうな彼だ、まとめ買いでもしているのだろうが嗜好が偏っているのか同じ種類のパンを数個ずつ購入するつもりらしい。
「傷だらけだったわ…お嫁さんが泣くわよ」
リザが少しだけ茶化た物言いをすると、ロイは目はパンに向けたまま微笑して店内に目線を飛ばしている。
「いや、私はまだ貰う気はないよ。それに大事な物を今自覚して抱えられるほど、私は強くない」
真向かいのスペースへと移動するロイ。声音の調子は淡々としている。
なぜ?と彼女が問わずとも彼は自発的に申告した。先手を打って、とは聞こえが良いが単に嫌悪対象とされる話題を早めに済ませてしまおう
という魂胆が見え隠れする。
「内戦でね。亡くなった。君と同じさ、何もかも私の手にはない」
リザは瞠目した。そして、彼女の迷いをそのまま問うた。
「ロイは軍に入って、どうしたかったの?」
「君はどうしたいんだ」
見透かした彼はオウム返しに彼女に寄越した。
分からないから聞いているのに、最も嫌悪する職業であるから、本来なら。
内心毒づきながら、感情を押し殺す。
「どうって………もう、私の意志では選択肢すら自由にならな」
「なぜ諦める」
ロイが険を顰めてリザを睨み据える。
「自由にならない世界なら、ならないなりに諦めずに自由を切り開け」
リザは諭されながら、しかし彼女の向こうに居る幻影にロイは叱咤しているのだと思った。強い口調は、さながら自身に叩きつけられる。言い聞かせるような、喉を振り絞る言葉。
「君は生きているのだろう?逃げ出してようやく掴んだ人生だ。生きるなら足掻いてみろ」
煌めきがリザの反論を容易く潰していく。
彼自身が鮮烈な光を発しているように見えた――――錯覚だろう、そうに決まっているし実際そうであった。
目を擦る、しかし黒の瞳は悠然としていて、迷いも躊躇もそこには一切介在しない。
決意の眼差しに、リザは釘付けになる。
ロイは彼女の射る視線で我に返り、恥じるように黒い瞳を伏せた。
目もくらむ太陽が急に姿を雲に隠したように、視界が暗く淀んだ。リザは、停止していた呼吸を再開し、慌てて酸素を吸い出した。
彼も何もいわずに単調な動作を相変わらず継続している。
あなたの背中は傷だらけ。夜闇に浮き彫りにされた銃痕やみみずの走る醜い背中に這わせた感触は確かであったかとリザは触れたその手を握り締める。傷だらけになって、一人戦う人。笑いの奥で泣きながら。ならば、私は。
リザはベーコンエッグパンを指差しながら、ロイへと顔を向け春の日差しの笑みを浮かべた。
交じり合う目線、青と黒。彼は子供のような無防備な表情で、きょとんと彼女を見据えている。
「じゃあ…私は、泣いている子供をどうにかしてあげようと思います」
瞬間肩を揺らすも、ロイはすぐに背を向けて勘定場へと歩を進め、リザは後を追った。とても嬉しそうに。
「そうか。会ったら飴でもやっておいてくれ。きっと泣いて喜ぶよ。寂しそうだからね」
「ええ。その子との約束です」
命を吹き込んでくれた子の涙が少しでも拭えますよう。








ロイが目覚めると、ベッド傍らは既にもぬけの殻となっていた。
胸に僅かな痛みと空洞を抱えながら、温もりのない冷えた、彼女が存在したことを証明する皺の寄ったシーツを撫で、無表情に呟く。
「約束、か…」





**


数年後・某日
馴染みのバーカウンター


ヒューズが恋人の自慢をでれでれとした笑顔で毎度の如くのろけた後、包帯に吊られた白い左腕で頭を掻いた。
「そういやあ、噂だが…イシュヴァールにでかい新人が投入されるらしいぜ。すげえ射撃精度だって」
ロイが鼻で笑い飛ばし、ふと数年前出会った少女を回顧して、まさかと振り払うように酒を呷り記憶を彼方へと押し流す。彩やかな日々は、終焉したのだ。日々褐色の屍を積もらせる自分になど、感傷に浸る権利もない。
「へえ、すごいな。イシュヴァール刈りが繁栄している戦場だ。誤射されんようにせいぜい気をつけるとしよう」
溶解しかけた氷が最期の哀れみみたいに、カランと足軽い音を硝子に打ち鳴らしす。
果たして彼女は、火を防壁に無様に泣き、戦場に佇む子供の元へとたどり着いてくれるのだろうか?























「掃除をする暇があるのなら仕事をしてください!大佐」
「しっ!今埃が舞ったような気がするのだよ、中尉」




/彩










-----


「彩」、ようやくこれにて完結となります。

しかし、結末も展開も、当初とは大分姿を変化させております。
本当は戦場が出てきたり、色々していたのですが頭の中の流れと文の中で生きる二人はそちらへは足を向けませんでした。
「彩」な日々は昔のこと、名前で呼び合える日々には馴れ合いも親しみもあったのよという話でした。
原作ではひたすらストイックな二人ですが、信頼関係の裏を私なりに補完した形となります。
リザはロイのために、ロイは上を見据えるために、軍に籍を置く。
ロイアイの崖っぷちな、ギリギリの絆が私は大好きです。

途中放置もありましたが、振り返れば約1年弱の連載となりました。
長い間、お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
ちらほらと頂いていたご感想を下さいました方々へ、ひたすら感謝申し上げます。



いろは寅
05.03.14



感想いただけると励みになります。

nama

感想