その日、私はある女性の泣き顔を見つめていた。
実際には、泣いてはいなかった。けれど泣いているとどうしようもなく確信して、瞬間始まる砂糖づけの世界に放り出された。
甘くて甘くて、虫歯になるような、胸を癌に巣食われるような毒。





第四話「雨の中、ただ一人待つ君に傘さしかけよう/U」






ロイは大部屋の平机で、中尉という階級をフル活用し、部下に回された仕事の処理を押し付けていた。
マルク大佐直々に「ロイ・マスタング中尉は別の極秘任務についている」というお触れが下されたので、ロイは現在ホークアイ大将の令嬢に関する書類処理や、上からの対応に関する事項を斜め読みしたり、彼女と対面し、取調べを実際に行ったりしている。保護観察官という立場はなかなかゆっくりとしていていい。
凶悪犯という訳でもないしとロイは久方ぶりのゆったりとした仕事に身を投じている。
窓格子もない部屋は薄暗く、常時蛍光灯をつけなければ闇の中という隠蔽に急遽用意された仮眠室に、腰までの金髪を長し、気だるそうな美少女と話すのは正直楽しい時間ではあるのだが、なんというか、人を拒絶するような空気を纏っている。
「美人なんだがなぁ…」
ロイは頬杖づきながら、嘆息する。
着替えはいるか、と保護されてから2日たった翌朝に訊ねてみれば、「ジーンズと白シャツを」という素っ気のない回答が寄越された。警戒心剥き出しの応答だったのか、それとも単に面倒で彼女が着用していたものを注文したのかは、彼女のみぞ知るところだが。それに、あの目。
ロイは気になっていた。睨みを据えるアメジストを思わせる青い瞳。
齢17の少女が宿すとは信じられぬほど洗練された言動、うかがえる理知的な、悪くいえば冷たい思考。
「士官学校ねえ」
「中尉!そんな黄昏てるんなら中尉が押し付けた仕事手伝ってくださいよ!」
「うるさいお前等は黙ってやっていろ!私は極秘任務に忙しいんだ」
といいながらペンを指に挟んでフラフラさせている様子を窺えば多少毒づきたくもなるだろう、部下は尚も言い募っているが、無視する。
それに、とロイは大部屋司令部の最も奥、壁にかかるホワイトボードの日付を見つめた。そろそろ士官学校に戻るか、入らないかの選択肢を一つに絞らなければならない頃合である。
一週間の猶予と名目で当方司令部から軍部の寮に移動し、これから5日、彼女は考える猶予が与えられるらしい。
軍部寮に入れられる時点で当人にすれば投獄されるような感覚だろうが、とりあえず上としては英雄と祭りたて上げるホークアイ大将の令嬢を精一杯もてなしているつもりなのだろう、彼女が軍部に戻ることなど、名将の父親を持った時点で疑う余地もないではないかと。
しかし上層部の思い込みとは裏腹に、彼女は軍部を、いや組織に拉致され、訓練を受けて宿した武力さえも忌避している。
「が、道はない、か…」
彼女には戻る家も家族すらも戦争で失っているのだ、待つものなど居はしない。
ロイは重い腰を持ち上げ、地下の仮眠室へと向かうために足を進める。酷く気分が落ち込んだ。
悪代官のような心地がしてきたのだった。だから気が咎める、当然の良心だ、それだけだと思い込む。
拉致され2年、ほんの数日前に身内は皆亡くなりました、家も焼かれましたと通告されても、微塵も辛さを見せず、ただ平然と、はいと受け答えた少女の無表情が思い出された。
彼女に潜む闇は、強さはいかほどの物かと内心面白がり、興味を抱いているロイは悲哀をたっぷりにまぶした同情まがいの感情を、表面的に抱いて本心は封じていた。
彼がかつて真から心を許した女など存在しない。

やがて無機質な白壁が続く果てのない廃墟のような廊下を歩き続け、現れた鋼鉄の扉をノックする。

「ロイ・マスタングだ。入るぞ、リザ・ホークアイさん」
「…どうぞ」
素っ気のない言い草だが応答はしっかりとする。失笑しながら室内を開放すれば、真っ暗な中で電気もつけずベッド横に腰を据えて膝を抱いた恰好の少女が、暗闇の中から見上げてくる。
ロイは脳から切り離された脊髄反射があたかも命令したように、言葉を弾いていた。世辞の意図もなく。
「…暗くても、君の目は美しいな。私、は…………と」
そこではた、とロイは我に帰る。
思わず口元を片手間に塞いでしまう。動揺していた。
何を私は口走っているんだ、こんな少女相手に…心から?
「…なんですか?」
「い、いや。なんでもない」
ロイがうろたえつつも平静を装って蛍光灯をつければ、怪訝に見つめ返してくる鋭い瞳がロイの迷いを打ち抜いてくるようで、目をそらしておく。
何もかも見透かされていそうでこの少女は恐ろしいのだ、なぜだか。

不自然に顔を背けたまま、封書をなるべくさり気なくロイは彼女の前に差し出した。
受け取り、紙面擦れの音がしばし静寂を保持していた空間に雑音を投じる。
ロイは咳払いをして、そろりとそれとなく気配を消して彼女を窺ってみると、
今朝渡した着替えに袖を通していた。女性職員を通してもらってはいるはずなのだが、まだ昨夜まで着用していた衣類は回収されていないらしい、ベッド下にシャツ袖が乱雑に突っ込まれている。
と、ロイの視線が一瞬釘付けになり―――――しかし俯いた書類に目を通すリザは勘付かない。
彼は頭を掻いて、ますます体の向き具合を不自然に反らして、あまつ忌々しそうに舌打ちした。
替えた下着くらいもう少し奥にいれておくなりしておけばいいのに、襲われるぞ。
見えた下着の肩紐をフェミニストのロイは見慣れたものだろうに、なぜだか気にしつつも、自分が小娘に振り回されていることを自覚するのが嫌で、低い声音で吐き捨てるように彼女に言ったものだがら、不審な顔でリザはロイを瞳に映した。

「今から君を、寮に送還するから、私と一緒に車で出てもらう!」
「あなた一人と?」
「そうだ。極秘だからな」
「………マスタング中尉。どうしてあなたはそんなに不機嫌そうに顔を赤らめているんですか?」





**






「荷物は積み込んだか」
「…はい。後ろの荷台に」
リザは仮眠室で訊ねた一言がそんなに気に触る物だったかと首を捻りながら、車の助手席に乗り込んだ。
ロイは先ほどの余韻が祟っているらしく、どこかぎこちないというか言い草が普段よりも大人しい印象に落ち着いている。
極秘任務は暇だ暇だと呟きながら無駄に仮眠室にやってきては、この2日女性の話やら錬金術の話やらとにかく豊富な話題をぺらぺらと軽妙な口調で語っていたが(一方的に)、リザも2年の空白を持っていたからか、なんとなく、どれも興味をそそられる話題だったのでちらほらと気が向けば受け答えていた。しかし始終、彼の視線がやたら纏わりついていたのは感じていたがあえて沈黙していた。今もそうだ、運転席に座した彼から目こそ向けられていないものの、空気がこちらを注視している。
リザは組織でも間々あった経験なのだが、対象物側としてはあまり気分のよいものではないので、
「あの、何か御用ですか?」
「は?」
ようやくリザは積年の思いを開口した。
同時にロイがハンドルを切り、発車する。
「何の話だ一体。突然」
硬質な黒髪が少し開けた窓に揺れる。影がそよぐ眉目は秀麗と呼ぶに相応しいだろう、リザから見ても
女性受けしそうな精悍な顔立ちだ。推察する、しかし性格は明朗でジョークも利き、言葉も上手い。が、こういう類の男こそが危ないと考える。
「あなたは、ずっと私も見つめていました。何か私の顔にでもついていますか?」
びくりとロイの肩が大袈裟に跳ねた。しどろもどろにハンドルを握る手が浮き足立ち、訳も分からず困惑するリザ。
「そ、そんな訳がないだろう!何を確証に」
「あなたの動揺こそが事実と指摘しているように思われますが。…それに」
リザの思考がすうと冷える。沼底に引きずり込まれていくような、退廃的な気分がへどろとなって彼女の精神を襲う。
「組織であれだけ日中ずっと仕込まれていれば、子供だって過敏になります」
ロイは息を詰めて、リザに横目をやった。空ろな瞳が、どこでもなく空でもなく、ただただ深遠を覗いているような、脆さと危さ。
あえて彼は鼻で嘲った。彼女を引き戻さなければという思いと、四十思考していたことだった。
「何を言う、君だって子供だろう」
「違います。年齢的にはそうなのかもしれませんが、子供というほど私は無邪気でもありません」
可愛げの欠片もない、と付け加えるとロイが悲しそうな顔をしたので、リザはなぜか身が震えて沈黙してしまう。
よく分からない奔流が心を強襲して、恐ろしい。得体の知れぬ感情。だがふと思う、この二年、失われていたものなのかもしれないと。
体温が上昇するのも、付随する症状か?
「いや。君は子供だよ、大人ぶっている、というか泣いている子供だ」
くつくつと喉で笑ったので、リザはさすがに頭に血が上り、やや怒気に気圧された声音で険悪に呟いた。
「中尉。貴方は、なにを分かったような気でいるんですか?」
「分かった気か。いや、分からないよ、そう。でも分かりたいのかもしれない。君は面白いから」
彼女は目を細める。鷹と呼称された正確無比に的を射抜くレンズ。
「面白い?」
「……君は、どうしてそんなに強くいられる」
「強いからですよ」
リザは言い切った。組織ではそうでなければ生き残れなかったから、強くなったのだ。
命を奪うことはなかったけれど、テロを起こすには致命傷以下の銃傷を負わせることが彼女の第一目標であり、
ただ逃れる機会を淡々と窺いながら訓練に無心で没頭していた頃を回顧した。
何も、なかったのかもしれないこの2年は。

ロイは真っ直ぐに前を向いたまま、断言した。迷いも躊躇もなく。
「違うな。今分かった。弱いからだ、君は。誰よりも弱っちい女だ。だから面白い」
「…弱い?」
誰に述べても癇に障る発言を癇に障ると理解しながらのたまった男を、リザは睨みつけると、
「ああ。すまない。お客さんのおでましのようだ」
急にロイはアクセルを踏み込み、道は進む。リザは唐突なスピード加速に前のめった。牢獄への街道は着々と足を急き、この直線道路を突き当りまで進めば軍部直属の士官学校行きへの切符は自動発行だ。
しかし、ロイはわき道へと侵入し、車幅はより狭くなっていく。
「あなたはどこへ行こうとしているのですか!」
「おや、君には分かるだろう?後ろを見てみろ。…ただしミラーでな」
ロイの語尾に、リザは意図を察し、バックミラーを身じろぎせず目をやれば後方より不審な車が一台、接近しすぎている。
相手が悠々とケースを開ける手際を窺えば、ああ、手馴れていると一見にして、素人目でも判断できるだろう。
「…どちらが標的?」
彼女の厳しい瞳は、巻き込んだなという迷惑そうな意志が浮かんでいたがロイはひらりと笑みでかわす。
「いやあ、そりゃあ私だろう。上司を以前、現場で少々蹴落として私が昇格してね。多分それじゃないかな」
「食えない男だわ、やっぱり私の見立ては当たってた」
ぼそりと独り言、もとい恨み言を吐けば、愉快そうな声音が返ってくる。
「悪いが、足止めしてくれないかな後ろの車の。後は私が、始末をつける」
軽く言い放つが、歯切れの良さには冷酷さが滲む。顔色一つ変えず、頷くリザは助手席から腰を伸ばして足元へ屈みこみ、ジーンズ裾を捲れば現れる漆黒の鉄を手に取った。ロイはますます楽しそうに目を輝かせた。
「小型銃か。全く用心深いことだ!」
「染み付いた生存本能よ」
足止め。
リザは上体を低くし、身を反転させる。座席越し、小型銃を背もたれに固定し、姿勢を構える。
2人。軽いか。
青い瞳を一層厳しく、照準を固定する。狙うはタイヤ。されど追突されるでもなく、爆破させるでもなく
彼の要求は『足止め』である。これの微妙なレベルでの要求が一番性質が悪いというのに。
「簡単に言うわね。あなた」
「信頼している。君を」
「バカね。早死にするわ。よく知りもしない人間を!」
射的目標確認。引き金を絞り、タイミングを見計らう。
小道小道へと侵入していき、いよいよ道幅は車が擦れるのではないかという悪路へと導かれていく。
「止まりなさい。邪魔だから」
笑って、リザは引き金を連弾、2発弾いた。乾いた銃声が搭乗する後部座席後ろ、車硝子を突き破り、極度に接近してくる後方車の車輪に命中する。
きゅるきゅると奇怪な声を上げて失われる空気に耐え切れず車体が右左へと波立ち、壁に激しく接触するが、尚も執拗に速度を上げて突き飛ばさんばかりに勢いを強めてくる。 酸素尽きる極限まで体当たりをしかけるつもりらしい。
「スピードを上げて!これ以上至近で突かれたらこちらが不利よ!」
アクセルを踏み込み、後方の車はいよいよ車輪が絶命したらしく壁に火花を散らしながらボンネットを
散々煉瓦壁に擦りつけた挙句、煙を上げて停止した。リザは油断なく銃口で狙いをつけたまま果断なく睨み据える。 相手の車がフロントに銃を連射し、突破口を築き上げた。身を乗り出す武装した二人組みの周囲に、飛び散る硝子片が差し込む陽光にキラキラとダイアモンドダストを発現させる。
こちらの車体上へと乗り移ろうとする意図を察した。
しかしロイは余裕を含ませた態度で、満足げに息をつくと、ワザとらしく額の汗を拭って見せる。
「見事」
「後ろの車が少しへこんだわ。ごめんなさい。ところで、早くしないと私達死ぬわよ」
「分かってる。だからこの廃車寸前のこの車を蹴落とした上司からちょろまかしておいたんだよ」
臆面もなく言い放つと、ロイも自車のフロント硝子をリザを背中で庇いながら蹴り割り、ボンネットで跳躍し、
車体上に舞い上がった。リザは彼が出る寸前、手で制された命令に従い、しかし後方、敵へ睨みを利かしている。
リザの天井が激しくへこんだ。ロイが着地したのだろう、2足分。
先手を打たれ、彼らが乗り回した挙句に潰したボンネットに留まり、二人が銃を仁王立ちで悠々と風を纏うロイに固定している。
「さて、どういうご用件かな?そんな物騒な物を私を殺しそうな勢いで向けて」
黒光りの咆哮がロイの喉元を暗い突かんと死人への手向け口上をあげながら問答無用でトリガーを引き絞る敵。
リザは無表情に敵の手元を狙う。さて、この踊り出た馬鹿な男は死ぬだろうか、見込み違いであればそうだろう。しかし。
「死ぬお前に言うことなど何もない。死」
「困るんだ。そういう無粋なの、は」
彼が『は』と呟いた瞬間に、後方の車に一瞬にして巨大な炎煙が立ち昇ったていた。
「…だって、美しくないだろう?」
悲鳴さえ上がらず、ロイに銃を身構えた恰好のまま二人の男は瞬時に火だるまと化し、重力に飲まれるまま火柱の中へと倒れこんでいく。
リザは瞠目したまま、異様な光景を見つめていた。
一体がロイへと傾ごうとしたが、彼は光のない瞳でつまらなさそうに足で死界へと蹴り倒した。火に薪でもくべる様に非情そのもので。
リザは驚嘆していた。
あまりの鮮やかさに、あまりの鮮烈さに、しばし惚けていた。
久方ぶりに感じる恐怖と共に、彼女もフロント硝子から身を乗り出し、ボンネットを足蹴に車体上へと、
ロイと同じ舞台へと上がった。ステージは既に終幕し、物言わぬ骸が天に手をさし伸ばした恰好のまま黒炭として崩れていく。
彼はリザに背を向けていた。接近には勘付いていただろうが、振り向こうともしない。
気にも留めず、リザは声をかけた。畏敬の眼差し、神の妙技でも認めたような、慎重さが窺える態度。
「凄いわ。貴方は死神そのものよ。それが、錬金術…?」
ロイは陣が描かれた手袋を抑揚もなく見つめながら、寂しそうに微笑して、少しだけこちらに眼差しを向けた。
「…生存本能だよ」
その瞳が、なぜだか彼女の心に引っかかった。
時間とは取り留めのないものであった、今までずっとそうだった。士官学校時代すらも、父の生存が否定されて以降は、ずっと。
どこか狂っていたものがふいに溶解し、脳内へ雪崩れ込んでくる。
止め処ない、名もなき昂揚感は、リザの思考を停止させ、理性を停止させ、二人の交えた瞳さえ、見詰め合ったまま時を停止させてしまっている。

「さあ。君はここから歩いていけるよ。牢獄まで」
「…牢獄と分かっていて、なぜいけるの?」
リザは微笑しながら、それは心から。一歩、一歩。ロイへと近寄っていく。
張り詰めた彼の防壁が緩和し、リザが手を伸ばせば届いてしまう距離にまで到達すれば、意図も容易く決壊した。
彼の言葉が、引き金となって。
「―――――――慰めて、くれるかい?」
「…………いいわ」
濡れたものが、リザの頬を伝う。
ぎしりと体重が落とされ、車体がより軋む。ロイは彼女の腰を抱き寄せ、リザの涙を舐め取り、骨が折れそうなほど腕に力を込めて。彼女の心を銃弾が射抜いた。
これ以降、翌朝に至るまでの経緯は、今となってもリザ自身あまりよく覚えていない。
蟻地獄に誘い込まれた獲物が、砂糖漬けの中でもがき、のた打ち回るような幸福。ただただ。









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Moreover, let's meet tomorrow!!




「彩」に関してはともかく今回の企画で完結させます。
彩+他の作品という更新形態、もしくは彩のみか。