幼い頃、手習い程度にしていた粋な遊びがある。 近所のお姉さんが神様にお祈りするという建物に隣接する住宅に住んでおり、美人だったかどうかと言われれば「そこそこ」の端麗な容姿をお持ちであったのかもしれない。 子供の記憶なんて不鮮明、まるでいい加減極まりない大人の高波に押し流されて、そう思い返すことも思い出そうともあまりしなかったものの、どうして優しい思い出というものほどこう不公平に忘れやすいのだろう。 辛い記憶の威力が強すぎるのだろうか。 どうせならば逆がいい。 そうすれば少しはこの戦だらけの世界も多少は良くなるだろうし、君はもっと存外に子供っぽい笑顔を見せてくれるだろうか。 大総統になった暁にそうであれば、欲を言えば傍らでそうであってくれれば余計に嬉しい。 今日付けの書類相手にまるで覇気のない顔で嫌そうにあがってくる報告書に目を通しては印打ち、通してはと単調作業をこなしていたロイは「あっ!」と小さく声を上げたなり唐突に目を眉間に皺を寄せ、イライラとこめかみを人差し指で小突き始めた。 リザは横目で一瞥したのみで、特に気にせずさかさかと部署別に書類を分別して纏めていく。 気まぐれ屋なロイにおいては往々にある光景ではあったが、大概はこれまた何やら「あっ!」と声をあげてそうかそうかと首肯し、自己完結して終了してくれるため、いつもならばこちらにまでは被害余波はないので、別段リザは気にするでもなく放置しておくと、 「そうだ、アレだ。あの曲だよ、ほら君」 掴めない記憶の糸口に地団駄を踏むロイは、リザの肩をゆさゆさと揺さぶってきた。 ・・・・今回は被害報告1件。 呆れたように肩を竦めるリザは、生地越しにじんわりと伝わるロイの温もりに僅かながら跳ねた胸の鼓動を無視した。 「大佐・・・・・もう少し詳細にお願いします。情報が曖昧すぎます」 「そうだ、あの、よくパン屋でかかってるじゃないかーああ気になるな」 よほど気になるのか、こめかみを引掻き遂には椅子にまで八つ当たりを始めている。 足癖の悪いロイに蹴り倒された罪のない椅子を起しつつリザも東方司令部近郊、馴染みのパン屋を連想しバックミュージックに何が頻度良く流れていたかを回想する。 なんだか何度も何度も同じことを聞き返されれば、興味がなくとも気に係ってくるというのが不思議なものだ。 「えーと・・あ、そうだ」 ロイは拒絶され続けた記憶にようやくアクセスし、手を伸ばせば今すぐにも到達しそうな輝く一点が目前にまで独りでに迫ってくる。 あともう少しで、サビ部分が思い出せそうな予感がする。 「あ!」 ロイの脳内で、光が弾けた。 「思い出されましたか?」 「ああ。だが・・・」 「何です」 「一章節分の譜面しか思い出せないな」 「・・・・・大佐がピアノを?」 他の彼の部下が聞けば、さぞ吹き出しそうな話だ。 デートだなんだと言う彼には、どんな贔屓目で見たとて正直普段の姿からではおおよそ予想しがたい上に、あまり似合わない、ような気がするが。 「変かね?」 気恥ずかしそうにするでもなく、ロイはふふんと余裕十分に鼻を鳴らす。 「可笑しいと感じない人間の神経の方が異常な気がしてきます」 「まあ意外な特技だろう?昔、近所で習ってね。今もたまにだが弾いている」 「・・・似合わないですよきっと?」 リザは目を細める。 「似合わせるさ。今度聞くといい。惚れるぞ」 リザは大変珍しく柔らかに微笑むと、留めていたバレッタを外し、癖のない長い金髪を背に流して髪を整え始めた。 小休止の合図だろう。いつもこの仕草の後彼女はコーヒーを二人分持って彼の元へと戻ってくる。 「火傷します?」 「タダでは済まないぞ。また家に来た時に聞くといい」 「・・・楽しみにしてます」 ふっとまたリザが少し頬を染めて笑うと、席を立って廊下へと出て行った。 その背中を見つめながら、ロイはああやられてばかりだと思いつつ上昇した体温のいまいましさに、彼女が帰ってくる前にとりあえず赤みだけは取れていてくれと心底願いながらパタパタと汗ばんだ手で火照った顔を扇いだ。 /classic >アンケお礼文でした。ロイが思い出せなかった曲は…ご存知のとおり。 |