月初めにカレンダーをめくると真っ先に目に飛び込んできたその日に、ロイは顔を顰めた。
彼が見つめるのは、軍部配給のカレンダーに控えめに打ち出された赤いタイプ字。
それこそ、目を凝らさなければ目視もできない程度のこの扱いが、軍部内部でのその戦争での苦渋を露にしていた。


『イシュバール開戦』
ロイは今年もまた、その小さな文字に目を凝らす。




「もしも一度」




ふと目線を走らせれば、か細い首に、金糸が垂れた白いうなじが一直線に目に入る。
ロイは自分のような男の前で、こんなにも無防備な横顔を見せながら脇に控えて仕事をこなしている彼女が、なんだか不思議に思えてくる。
カレンダーに目を遣ると、あの日が目前までに近づいている。
毎年この時期に襲ってくる、強烈な違和感と不快感。
殺伐とした空気に進み出る青服、風にひるがえる軍服が朱に濡れる。
大衆の為に使われるべき力が、容赦なく人の命を奪う瞬間の、なんとはかないことか。


一度、この指をすれば、人は死ぬ。
一度、この発火布を外せば、自分が死ぬ。

戦場では余裕など無かった。余裕は油断を呼ぶ。
だから力なきものが自信を持てば隙をつかれて死ぬ、気を抜けば殺られる。
そういう、それだけの単純明快な世界だった。
野生の動物の生存競争となんら変わりはない。


平和主義だなんだとどれだけ利口な理屈をこねようが、それは最前線に立たない者の言い分であって、皮肉る気がなくとも、運の悪いことに地獄絵図に立ちあってしまった人間としては、正に綺麗事だ、と罵らずにはいられない。


人間、極限に追い込まれればどうにもなりふり構わず生存本能というものが働くらしく。
現実は理論をとうに越えた存在だということを、嫌というほど味あわされた。
気が付けばそこには、目の前一面が、己の生み出した赤い色。



ふと我に返ると、ペンを握ったままの自分の指を見つめている。
視野を拡大してみれば、目の前の茶色の木造デスクの色彩が、やたら彼をいらつかせる。
違うだろう、大総統のデスクはもっと暗い色だ。


どうしようもなく、ロイはここにいる自分が不釣合いに思えててならなかった。
自分が弱音を吐くことは許容しないが、弱音を隠すことは奨励する。
違う。この考え、この弱気な心自体が既に弱音だ。
そうに違いない。
投げやりに思考を中断させて、ロイは声を上げた。
それを聞き取るものは、この部屋にいる自分以外の一人しかいない。


「――――――中尉」
「なんですか」

嫌な気分を払拭したくて、ロイは黙々と隅に追いやられた書類に手を伸ばしているリザにわざと会話をするようにけしかけた。
相手は今は多忙なので話したくないと剣呑な半眼で雄弁に語っているが、構うものか。
自棄な思考に陥っている自分を自覚する。


立ち上がって、リザの隣へと並び立った。
彼女を見下ろす。
リザの首筋が、喉笛に食らいつけと誘っているようだった。

ああ、大体この無意味な苛立ちはあの戦争の開戦の日が近いせいだ。
一体誰がどうしてくれる。

この自分に対する、やり場のない嫌悪感を。



「話さないか?いや、話したくないのか?」
ロイは脅すように、リザの目の前で親指と人差し指を擦り合わせた。
今発火布は装着していないが、もしも手にしていれば―――確実に彼女は今ごろ既に亡き者にされているだろう。
酸素で火力を調節するというが、普段ならばともかく、今の彼ならばやりかねない。

ロイの瞳には、彼女というよりもその背の向こうに立つ、何者かへの明白な殺気がこもっている。


イシュバール戦に共に参戦していた彼女だ。
ここまでオープンに気配を発散させれば、少なからず殺気をロイから感じているはずなのだが、しかしリザは見向きもせず、昨日に起こった反乱鎮圧時の死亡者名簿のファイルに淡々と目を通している。


「もしも一度、私が指をこすれば君は死ぬ」
ロイは抑揚のない声で断罪するように言い放った。
だが彼はリザを見てはいない。誰か、この世にはいない誰かを殺そうとしているのだ。

「ですが、今は大佐が発火布を装着していませんから、貴方が死ぬと思います」
「どうして?」
「もしも一度、私が引き金を引いてしまえば確実に貴方を殺せるからです」

いつのまにか、ロイの背には冷えた固い感触が当たっている。
背後から見れば分かりにくいが、表から位置を確認すれば明白。
寸分違わず、彼の心臓に狙いを定めていた。それこそ引き金を引けば、即絶命させられるほど的確に。

ロイは動じずに不敵に笑い、視覚されない殺気を互いに交え、愉悦すら覚えた。
これだ。これが本来の慣れた空気だ。



「・・・もし私が指をこすれば、今仕掛けているものの引き金を引くかい?」
「いいえ引きませんね」
「どうして」

目線を背後に遣れば、カーテンで外からの視界は閉じられていた。
つまりはリザの銃は見えない。硝煙反応くらい、彼女の銃の腕と鍛錬から考えればどうにでもできるだろう。
ロイの殺気が潮が引いていくようにすっと消えていく。
リザは嘆息して銃を腰のホルダーへと収めた。


「諦めます。貴方の元につくと決めた時から、私の生き方は決定しました。
 私は運悪く目が悪かったんでしょう。だから死ぬ。それだけです」
「実に簡単でいいね」
「ええ。でも私はまだこの若さで死にたくはありませんから、できれば殺さないでいてほしいものです」
「怖くはないのか?」
「怖いですよ」
「じゃあ」
「でも」
言い募ろうとする彼の言葉をリザは我が物顔で遮った。

「でも、貴方以外の人に手をかけられる方が、もっと怖いでしょうから」

背の高いロイを見上げた格好で、真っ直ぐに瞳を見据えて断言した。
剛胆な告白をされた、そういう感覚だった。
この解釈が間違っているか否かを今のところ知る者は、目の前の女性のみしか世界には存在しない。
唐突過ぎて、気の利いた言葉が見つからない。


「・・・・そうか。じゃあ、頑張ろう」
「そうしてくださると嬉しいです。では、手始めにとりあえず明日締め切りの仕事をこなしてください」
なんとつじつまの合わない会話だろうか。
頭に浮かんだままに受け答えるロイに、リザは平然と合わせてみせた。


生きるとか死ぬとか殺すとかやたら物騒な単語が飛び交う会話を、
まるで昼食に何食べようかと相談しているような気軽さで話せる相手がどれだけ、どれほどいるだろうか。
この世、自分の傍にいるもので。

竹を割ったような気性の部下は、上司の目前にどさどさとあっという間に書類の白い巨塔を作り上げた。
留めとばかりにご丁寧にデスクの上に天使の手から、悪夢の書類処理の第一弾が投下される。


ロイにとっては、今はここが最前線なのだ。
他愛のない語らいで、心底自覚させられる。差異は足をつける土が違うのみで、今もあの時と同じか。

一気に気が抜けて、顔を無骨な手で覆う。
あんなに苦痛だった苛立ちが、どうして彼女と話すだけでまるで魔法のように無力化されてしまうのだろう。
指の隙間からちらりとカレンダーに目を移すも、もう不快感は感じない。
あの字は、その存在をただの小さな赤字へと戻していた。

ロイは射遣る様な真っ直ぐな瞳に、肩をすくめて苦笑した。
なるべく覇気を感じさせない低い声で文句をこねる。
多少でも同情(というよりも呆れ)を誘えれば、私の勝ちだ。


「君に殺られるよりもまず先に、仕事にやられそうだよ」
「大丈夫です。私が援護射撃しますから」

その凛々しさになぜだか無性に泣きたくなったが、
色男台無しの情けない笑顔で、結局曖昧に誤魔かしておいた。


――――キミニコソ 心ヤラレル。





fin.




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意味不明です。イシュバール戦の冒頭なんて、何も考えちゃいませんでした。
「もしも一度〜」のフレーズがぐるぐる頭の中で動き回ってくれたので、出してみようかと書いてみればこんな訳の分からないダークネタに!
な、なぜ?もっと恋愛チックになるはずだったのに!
やせ我慢大佐と、とっくに諦めて(笑)受けとめてる中尉が書きたかったので、大分予定からそれてるけどまぁ終わりよければ、いいか。(ダークネタだけどね)