愛されようとか愛想とか、介在しないはずだった。 生易しい刹那を大事に抱きかかえられるほど、彼女は強くはなかったし、彼もまたそうだった。永遠にそうだろうと思っていた。 全てが終わった。 肩の荷が下りたような、心寂しいような、複雑な感情がないまぜになり、リザは彼へと続く一筋の廊下溜息をついた。 通り過ぎようとして、しかし思い出したように扉横を前に停止する。 身体を対面に向き直らせ、扉にかかる階級名称に少しだけ微笑んだ。 リザはかつて彼を『中佐』と呼び、次に『大佐』と呼び、その次に『准将』と呼称し、名はめまぐるしく変わり…最終的に。 そして今日、彼女が唇に乗せたのは以前に比べ些か小規模化された軍部の重鎮中の重鎮の階級だった。 「マスタング大総統、失礼します」 「入りたまえ」 彼女がいつものポーカーフェイスを少し揺らしながら踏み入れた執務室扉前で、リザは足を止める。 ロイは不思議そうに瞠目すると、ちょいちょいと彼女に傍に寄れと手招きするも、リザは首を振るだけで前に歩みでようとはしなかった。 話の前に軽くお辞儀をすると、「鷹」と呼ばれた彼女は瞳を閉じた。鋭い眼光は影を顰める。 「私は…退役しようと思います」 私はもう必要ない。元より、彼の夢を叶えるために軍部に在籍していたのだ。 この人の目的は達せられたのだから、理由はもはや喪失した。銃で手を汚すことも、もうないだろう。 「今まで、お世話になりました。…大総統に昇格、おめでとうございます」 言い切ると、リザは敬礼した。額前で揃えた指が少しだけ震えたが、無視する。 視界が歪んでいないのだから泣いてはいないようだ。ならばいい。どうせ彼には私の一挙動、心情、速い鼓動。 全てが知れているだろうから。 彼から離れるのはやはり辛かったが、だか何より喜びの方が悲しみに勝っていた。 ようやく平穏の時代がくる、そしてなにより彼が大総統になる。 ついに軍部のTOPに、彼が立ったのだ。 「…今まで、ありがとうございました」 敬礼を崩さず、リザは微笑んだ。押し隠されていた彼女の優しさが取り戻された笑顔。 ロイは普段、見せぬ動揺を露呈した。 執務椅子から立ち上がる。 リザの敬礼の手が下がり、踵を返した。ロイは性急に行動に移した。ほとんど無意識下に。 部屋を後にしようとするリザの腕を、ロイは引いていた。 驚きの色を見せるリザと同様、なぜか彼もとても驚いた様子で目を右往左往させてたじろいでいる。 彼女は困惑し、青い瞳で見つめ返した。けれど戻るのは縋るような弱々しい眉目のみ。 「何か、問題でも?私は書類、武器など提出すべきものは既に事務を通しましたし、こちらに立ち寄ったのは長年お世話になったか」 らで、という言葉を遮り、ロイは叫んでいた。 「困るんだ!!…なんというか、その。君がいてくれないと、ものすごく困る!!」 「…側近には私の部下から優秀な人材を追認させたはずですが」 「いや、でも。あー、…書類だって誰が取ってきてくれる」 ロイは汗を浮かべていた。頭を掻いて、どこか苛立っているようにも見受けられる。 別れを惜しむつもりだろうか? いや、それにしても彼と私の間には感傷的なものなど介在されてはいないし、そうであってはならないはずだ。 馴れ合いの関係を築いていた訳ではない。暗黙の約定を、彼は自ら破っている。だから不愉快だった。最後まで付きとおしてこそ、ロイ・マスタングだというのに。 不遜で自信家で不敵で気に食わない男が、今例にないほどに脆く見える。 「部下が、やるでしょう」彼女は不快そうに鼻を鳴らした。 「だが信頼の置ける側近でないととても軍部ではやっていけないだろう」 「何も私である必要はありません。アームストロングだっています」 「それだけは断固却下だ」 「………私もそうは思います」 「それに女性の方がいいじゃないか。華があって」 「私以外の方が貴方にはいくらでもおられると思いますが!」 矢継ぎ早に応酬される会話は平素とは違いあまりに感情的で、二人は息を切らせた。 ロイは肩を上下させ、恨めしそうに高い位置から視線を投げてくる。 リザはすっかり昨日までの彼女が応対して、冷えた目を突き返す。 「…そんなに私をいじめて、君は楽しいか?」 訳が分からない、とでもいう風にリザは首を振った。 「いじめてなどいません。ただ貴方がそう感じるならば、そうなのかもしれませんが」 「珍しいよ、君がそんなことを言うなんて。――――――意外だ、私が今からこんなことを私の人生で言うことになるなど、自分でもなんだがとても意外だ」 フェミニスト全開のちゃらけ顔を取り戻し、ロイは額に手を当てた。 しかし言葉の響きは真摯そのものであり、彼女も気がついてはいるだろうが否定する空気を滲ませて睨み上げている。 糾弾するのは、約定を違えるな、という点である。 「なんですか」 リザは催促した。 「一回しか言わないぞ」 「…聞き取れるといいのですが」 憎まれ口を叩くと、彼は情けなくうなだれた。今にも泣き出しそうな顔である。 今度はリザはたじろいだ。 この、目の前に佇む男は一体、誰だ。少なくとも私が使えてきた人物ではない。 「恨みでもあるのか私に」 「心当たりはおありだという証では…ありません、か」 「それもそうだな」 あっさり認め、ロイは語り始める。口は早く、舌を噛みはしないかというほど。 「私は女性が大好きだ。君が知っての通り、ああそうさ大好きだ!でもな、その君に対する思いというのは複雑で形容しようがないくらいなんだが、とりあえずなんでもいい、理由などいいんだ。傍にいてくれればそれでいい」 傍にいる。なぜ? 「……………………やめるな、と?」 「あぁいや……だから」 リザは首を傾げる。本当に分からない。 約定にはない。私と、彼の関係にはそのようなカテゴリーなど存在しないはずだった。 常に背に立ち、彼を守る護衛、優秀な部下。 「…分からないのか?」 「残念ながら全く」 ロイは嘆息した。貶されたようで、リザは眉をつりあがらせ、一層険を深めると彼は苦笑してふいに手を上げて、リザの頬に触れる。 ぴくり、と彼女は脅えた。上官でもなんでもなく、それは一人の男としての所作である故に もう片手も柔らかな頬に添える。リザの顔は彼の大きな手のひらに包まれ、みるみる紅潮していく。 ロイは滅多に拝めぬ彼女の愛らしさに笑いながら、額に額でキスをし、そして他人事みたいにのうのうとのたまった。 「………一生だ。一生生きてくれ、私の傍で」 リザは目を見開いた。間近に感じる息遣いは落ち着きを取り戻すことなく、ガチガチに固まっている。手馴れているはずの彼はみっともないほどに緊張し、リザがそっと、上目で窺うと、また彼も頬を染めていた。 リザはなんとなく俯いてしまう。 顔から火が伝播し、首筋から足まで体中が真っ赤に染まる。 「そ、そんなこと、考えたこともありませんでしたから」 あくまでも自分は彼を支える、それだけに徹すると心に決めてきたリザは仮定にも考えたことも無かったのだ。 まさか伴侶になってくれと、よりにもよってこの食えない男から告げられようとは。 「で……君の、答えは?………リザ」 灰甘い名を呼ぶ声に、リザは長い睫毛を震わせる。 「名前を軍部内で呼ぶのは、久しぶりですね…」 リザは呟き、そして瞼を伏せた。目頭に迫り来る熱さをそのままに、身体を覆われる親しんだ匂いに包まれてリザは微笑む。 柔和さに溢れた女の笑顔だった。 /別離の日 >久しぶりすぎなロイアイ。忘れてて書くの時間かかりすぎる。 |