「キラ?」
ラクスは姿が見えないキラを探し、ベランダへと出る。
温暖なオーブとはいえ、日が落ちる夕暮れ時は寒さで鳥肌がたつほどに気温は降下するので、子供たちにも気を使い服を厚めに着用させる。
ナチュラルの人々はは、こちらがびっくりするほど免疫力が低いのですぐに病気になる。この孤児院にきて、ラクスはナチュラルと多く接する機会が、プラントへ閉じこもっていた際よりも激増し衣食住を共にするまでになり――――特に子供は体を壊しやすいのだということを、初めて身をもって知った。ラクス自身も、コーディネーターとはいえ幾度が風邪をひいたことがある。

あちらでもないこちらでもないと足を彷徨わせて、ようやくたどり着いた孤児院においては末端部分にあたるテラスで真っ赤な太陽に儚くされてしまいそうな線の細い少年の背中を見つけ、ラクスは声をかけた。
「寒くなってきましたから、家に入りましょう。それと、カリダさんが―――…」
背を向けたままの彼はぴくり、と肩を震わせる。
ラクスは注意深く気配を探り、なるべく足音を立てぬよう、まるで脅える猫に接するように慎重に距離をつめる。過去への罪悪感と自らの価値を問答し、大戦終結から数ヶ月経過しても塞ぎこむキラは珍しくもなかったのだが、今日に限っては微細ながら様相が違う。
「…どうされましたか?」
「……………ラクス」
やや長い間、脊髄反射から遅れること数十秒。
沈黙し続けてきた彼がおそらく初めて、最も素直に苦渋に滲んだ悲壮な表情をして、絶妙な距離感を持って停止したラクスに穏やかな容姿に似つかわぬ自嘲的な笑みをみせる。
「…私に、できることがあれば。キラ」
癒しの歌姫だなんだと高名をあげたところで万能でもない、道端を少しだけ灯火を照らす蝋燭のような物だ。結局のところ、自分の悩みは自分で納得していくしかなく、他人が手を差し伸べる領域には人の本心は必ずしも望まないのだ。望んだところで、事の顛末は自らが掌握する。「自分」という意識が生きていく以上は、永遠に付きまとう孤独と共に、常に並ぶ。
だが動じるでもなく、ラクスは軽く返答すると隣にすいと肩を並べて夕日を見上げる。
さも当然だという所作に、キラは違和感をもってもよいところなのだろうがなぜかとても自然な行為のように脳のどこかが察していて、不思議と水に黒点が滑り落ち続ける体内の感覚を、そのまま急激に喉へとせり上げさせた。
「ラクス」
彼は笑みを打ち消すと、別人に主導権を明け渡したかのような悲痛な声で、キラは堰を切ったように吐露し始める。滑り出しは、ややぎこちなかったがラクスは気に留めるでもなく、赤い半円と海のきらめきを目で追尾している。
「どうして。僕は、助けられなかったんだろう。この手が、力がありながら、どうしてって。思ってた」
ラクスは数ミリ目を細めて、やはり優しい人だなと思い頬を和らげた。
そして同時、瞬間的に思い当たった思考に目を閉じたくなり相殺しあった感情の波は結局無表情を固持した。思案するでもなくそもそもの当然の原因に、突き当たったのだ。その『優しい彼』を戦火へと再び追い込んだのは、ラクスであり彼に起きた力を振るった過去における事象の全ての責任は、逃げ出したいところで情け容赦なく、私に帰結するではないか。
優しい人だと知りながら結局は必要性に駆られて布石を打ち、剣を手渡した結果が、これだ。キラの悲哀に塗りつぶされた表情に、ラクスは謝罪の礫が漏れ出ぬように必死だった。今更自覚しても、それは、傲慢にもほどがある。
当時は露ほども思わなかった打算が、まざまざと透けて提示される「今」。
私は…本当に、なんという―――――…。
ラクスは海に没してゆく太陽に無意味に目をやりながら、対照的にラクスは冷静な声で応える。
「………それは、もうどうしようもありませんわ。貴方が幾ら悔やんでも、こんなはずではなかったと泣いても」
キラの頭にがつんと殴られたような衝撃が走る。
現実であり、己を苛む事実であり、真実でありながら頭がかっと熱くなり、声を荒げて鋭く睨み付ける。彼女を見ながらも、彼女の背後に立つ誰かへと、牙をむいて。
「っ……分かってるさそんな事!!」
言い放ち、キラは大きく広げた両手を筋が浮き出るほどに震わせて、手のひらを凝視する。その肌ににあるのは、自身の姿が翳り、作り出す陰影――――いや、彼の目にはそれでない何かが見えている。
それに怯え、彼は大きく肩を震わせた。

いやだ、この感触は、爆音は、いやだ!!

キラの目には、枯れた木々の陰ではなく、濡れた血が映っていた。彼を戒める贖罪の証のように、紅い鮮血が散る。
「……そう、だから。今の僕には、何もできない……生きている価値も…ない」
感情を消して耳だけをそわだたせてただ受け止めるラクスを前に、キラはせめて膝だけは折れてしまわぬようにと、震える足で踏みしめるも、地はまるで頼りなくてさながら底なしの沼だ。それは懺悔のようであった。キラは精一杯に、絶叫させた。
「守れなかったんだ!…僕のせいだ。みんな、死なせてしまった……甘えて、傷つけて……守らなくちゃいけなかったのに。
何もできなかった。いっぱい…守れたものも、確かにたくさんあったけど」
戦場の最前線に立っていたキラには神の慈悲など信じられるほどの余裕もなかったが、戦中同様、それでも悔いを吐露する矛先を求め彷徨い、そして彼女へとたどり着いた。いや彼女以外にもはや吐露をすることなどできない。
彼のあるがままに、否定も肯定もせずに彼を受け止め、平和への剣をキラに託したその人―――ラクス・クラインに。

ラクスは無感情に、キラの萎縮する瞳を見つめた。キラは動揺する。湖水の静けさは哀れみも癒しもなく剣を示した彼女と酷似した姿。しかし更に孤高に身を置き調停を下す女神のようであった。
「キラ。貴方は神様ではありません」
押し黙る彼に、ラクスは更に続ける。
「貴方は神様ではないのです」
繰り返した。
意味がない訳ではない。
「だから」
「だから。……だから、貴方は一人ではないのですよ?」

この世界に無意味なものなど、粒子一つ足りとて存在しないからだ。
ラクスは誰をも魅了する母の微笑で、落胆と不安と戸惑いに瞳を揺らがせる彼を迎える。
「あなたのせいで、死んだもの。私のせいで死んだもの。アスランのせいで死んだもの。カガリさんのせいで死んだもの。
 皆それぞれを、忘れてはなりませんが、でも、生きなければ」
生きる。それが、それが辛かった。キラは身を切られるような思いで、僕が死ねばそもそもよかったとずっと繰り返していた。
「みんな、恨んでるよ。……守れなかった、僕を……その上、踏み台にして生き残った僕を」
「あなたが死んだところで何も変わりません。もうあなたは「今」にいます」
ラクスは穏やかに言い放った。
「発端となった『血のバレンタイン』も、平和の手を取り合い、発案者が実行しなければ、この戦争は始まらず、均衡状態を保ち続けたことでしょう。打開策も、見えたかもしれません。人間が欲望の渦に巻き込まれずに自然な進化を待っていたとすれば、そもそも何も起こらなかったかも。言い出せばそれこそ際限のないものです。既に、選択された未来に私たちは立っているのですから」
もう、過去は過去でしかないのだ。死ねば開放される、楽になれる。
理性が折れてしまえば、自殺などたやすいものだ。方法もいくらでもあるし、いつだって実行可能な死神の鎌で自らの首へ刃をいれ全てを断裂することもできる。
ラクスは桜色の髪を、耳にかけて何でもないように超然と構えて言った。キラは、目をむいた。
「私も、多くを殺しました。前線指揮を取ったのは私です。私は采配一つでクライン派の兵士の方々を殺し、地球軍の方を殺し、  指揮の過ち一つで数え切れぬほどの尊い命を殺しました。けれど、それを全て自分のせいだと思い込むのは、単なる傲慢に過ぎません」
にっこりとラクスは綺麗に笑った。
会話を聞いていなければ、何か嬉しいことでもあったのだろうかと推測できるほどの寸分の狂いもない、麗しい完璧な笑顔。
戦争で最たる責務を負うのは、つまるところ指導者である。兵士は支持に従い、目的を一駒として忠実に達成することが要求される。父の訃報により、平和の歌姫がクライン派代表として旗を振ることとなったが、彼女の意志を握るその手から滴り落ちる血涙をラクスは逃避するでも感傷に耽るでもなく、殺めた事実を胸に抱いているのだ。
キラは硬直したまま、隣にたたずむ少女を見つめた。
神々しいばかりにオーラを放つ彼女は、戦中エターナルで一人舞っていた勇壮な女神そのもの。直接的に手を下したわけではないではないか、だからたやすく「殺した」と認められるのだと彼女に立腹するものも多かろう。
言い逃れだと、思うものも多かろう。そしてそれを彼女が投げつけられたとしても、黙して受け止めるだろう。
「死などいつかは訪れます。だって、生きているんですもの。ならば、それまでを、あなたも私も、生きなければ」
死は逃避でしかないと言い切った、何万人も殺した罪深い彼女は、必死に生きているのだ、とキラはようやく気がついた。
笑顔を湛えながら、奪ったものの責務として「今」を歩んでいるのだ。
咎を引き受ける覚悟もなしに彼女は、自らが命を奪った犠牲者を口にしている訳ではない。キラは知っている、殺した者の罪過を、苦しみを、奪ってしまった未来を。
戦艦から見える閃光に散る命一つ一つに視界いっぱいにしながら、指揮を取りつづけた少女は如何なる心中であったかは誰にも分からない。
自己を責めることのほうがよほど懺悔としては簡単なのだ。
それでも彼女は、前を向いて、歩いていこうとしている。
「…君は、どうしてそんなに強いの」
未来に視線を投げる凛とした君が、美しかった。だからキラは、デジャビュと羨望をない交ぜにした声をあげた。
「え?」驚いて顔を上げるラクス。
「…あ」
キラは、すぐに、失言に罰を悪くして「ごめん」と謝罪をすると、今度はラクスが驚いて目をぱちくりする。零れ落ちた本音を後悔し、俯いてしまったキラ。
ラクスは一連の薄弱とした先ほどの記憶を、ぼんやり遠方のオレンジ色に染まる
青に、行き詰まりを覚えながら、総合して咀嚼する。
そしてラクスは、誰にも分からない笑顔を夜に食われていく夕日に浮かべた。
キラは彼女の変化には気が付かない。
彼女は、小さく息をつくと、ぱっとキラに体ごと対面する。一歩驚嘆し、心外気にしり込みする。
「…悲しみを、多く生んで、それだけしかない愚かな戦争でした。でも、生き残った命は、生きていかなければ。だって、あなたは生きているでしょう?」
―――――――生きて、償わなければ。
アスランが寂しそうにかつて言った、僕にできること、僕が今できること。できること。
生きること。死なないこと。いっぱい生きること。
日常の彼女の姿を思い出す。太陽の下で精一杯に笑って、幼い未来と戯れて大空へ手を伸ばすちっぽけな少女の姿。
「生き残ったものが必死に生きることこそが、贖罪ですわ。私達が、失われた全ての命に対してできることです」
ね?、と悪戯に付加した。
「負う者は、貴方一人でなくてもいいのです。神様ではないのですから。
 そして戦争の責任は戦った者だけではない、生きる人間すべてに課せられたものですわ」
皆迷って悔いている。償う方法を探している。
彼女は後ろを向いたままでなく、願いを受け止めて前に歩みだすことを選んだ。
ただ周囲の、何人かを幸せにするために。
「一緒に、生きていきましょう。みんなで、一緒に。本当に、…………辛いことだけれど、生きていきましょう」
不思議な間に瞬間疑問を感じたが、続く言葉にキラは理由はわからぬまま全力で耳を傾ける。なおも戯言を続けていた。彼女自身にでも強く、言い聞かせているようでもあった。自身の中で真実を模索するように、ラクスも、戸惑いながら、きっと今すぐに微笑む。そして、彼女は微笑んだ。キラキラとした若さに溢れた輝き。
キラは目を見開いた。絶望の闇に誘うだけだともう何百回も呪った夕日に照らされたラクスは、とても綺麗で、思うよりもずっと傍にいて、そしてキラにずっとずっと、触れていた。
「僕、は」
キラは衝動に突き動かされて言葉を紡ぐ。
今の、今の僕は。今、確実に、この伸ばされた小さな手を取りたいと願っている。それは希望だった。
夕日だって落ちれば夜が占有するが、だが夜明けは必ず、今が、次の今が生きた証として訪れる。

「―――ラクスさーん」
場違いに明るいカリダの呼び声がテラスに飛んだ。ラクスは留まる意志も残さず、素直にキラに背を向けた。
背中には彼に対する同情も憐憫もなく、ぴんと伸びた背筋が真摯に語りかけているようにも彼は思えたがそれは勘違いであった。人の背にあるものは影と細胞の群集と生の温もりでしかない。
彼が幻視したのは、対外的に与えられたものではないということだ。
「あ、はーい!……ではキラ、早く来てくださいね〜」
「あ。…うん」
肩越しに振り返って、ぱたぱたと早足に駆け去っていくラクスの後姿に目を留めながらキラは顔をばっとあげてできるだけ空へと目をむけて、雲の白と橙の鮮やかさに侵食する紺色に、本格的な夜の訪れを感じた。
今の僕に必要なことは、勇気を持つことだ。背筋を伸ばし、見据えるだけのほんの少しの勇気。立ち止まるには勇気はいらない、だが、だが。
それで終われるのだろうか。今が、次の瞬間の「今」があるというのに、これで終わると?
「…………そうか」
忘れていた。すっかりと陥没して、抜け落ちていた。
「明日が。明日が、今日の次の日に、あるんだった」
こんなにも当たり前でいつもどおり意識せずとも到来するものであると切り捨てていたものだが、あたかも生まれて初めて知ったような気がする。
夕焼けの空を見つめて、橙色が押しやられて薄い半月が太陽に恋するように昇っていた。地平線の傍にある海がキラキラと反射し、数時間もたてば月明かりが水面に舞い踊るのだろう。
「…用事、なんだろ。母さん」
別段何が変革されたというわけでもなかったが、キラは目を伏せて息をつくと、明るい表情でテラスから足を踏み出した。
「キラァー!早く早く!!」
急かす母に、キラは苦笑して応答する。溶け出した願いを、味わう暇もなくてこうして「今」は流れていく。
彼のお腹がぐうと唸る。どうやら小腹が空いたようだ。
何か、軽くつまもうか。
「………ちょっと待って、母さん!」
そして、キラは走り出す。
少しだけ勢いを増した調子で、夕日を明るい表情でふいに振り返った。





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―――――君は、どうしてそんなに強いの?

優しく微笑んでいた少女は、少しだけ寂しそうな顔をして首を左右に一度振る。
彼女が示した反応はそれきりであったし、それ以降も、おそらくずっとそうであろう。





/片翼