キラはディスクデータを消去するため注意として出たポップアップ警告指示に従い、Deleteキーをたたいた。
<ピー>
機械的な音を立ててディスクの莫大な容量を食っていた超極秘文章が消えていく。
ディスクを端末から抜き取ると、なんとなくそれを保護ケースに入れ、鞄に仕舞いこんだ。
おそらくこんな中身のないディスクなど返却されてもラクス、クライン派にとり無用の長物であろうし、
エリカ・シモンズも用のないディスクの処理になどデータ入力時に気をまわすこともなかっただろう。
「…でも、いるといけないし」
それでもキラは、なぜか自身に言い聞かせるように確認をとり、呟く。
数日前に首を巻いていた包帯はとれ、残るは頬と胸の僅かなガーゼのみである。唇をつりあげれば微かに走る痛みに顔を顰め、ガーゼに手を触れさせながら、キラはふと、死人は傷の手当てはいらないなと思った。
その瞬間に、赤毛の少女の自分を憎むような涙に滲んだ最期の双眸がキラの脳裏にフラッシュバックした。滲む冷汗が額に露出し、
「…ぐっ!!」
胃から込みあげる吐き気に、キラは転がるようにベッドから抜け出し個室のトイレへと駆け込み
白の陶器台に気持ちの悪さそのままに、吐瀉物をぶちまけた。
「ぐぅ…っ…う、ぁ…ぅ」
父親を奪った自分を彼女は最後まで恨んでいただろう。傷を舐め合う関係は利害は一致していた。
僕は彼女を守ることで失われた命を購おうと、償おうし…そして苦しみを紛らわすことに利用した。
そこに優しさをひけらかしながらも、愛情はなかった、だというのにあるのだと思い込むことで正当化しようとした。自分の手が血に染まっていく様に耐え切れず、荒む僕に彼女が囁く甘言――――人殺しを肯定し、自分を思いやり、認めてくれる言葉――――に僕は無我夢中で寄り掛かり、必死で。
僕と彼女はAAの中でも次第に孤立していき、ますます縋りつくさかなくなった閉鎖的な暗い世界で僕はそれにようやく気が付き、底なし沼から這い出そうとして彼女は結局突き飛ばしたまま…僕は守らなければならなかったのに。どうして穏やかな世界から暗い世界へ落としてしまったのか。アスラン相手に本気で戦えてなかった。だから死なせてしまったという訳ではないのかもしれないが、結果論的には僕に元凶がある。その上彼女まで死なせてしまった。
「はぁ、はぁ…」
小さな少女も守れなかった、トールも、フレイの父も、そしてフレイも。
絶望感と強烈な虚無感、罪悪感が不自然なまでに落ち着いていた波が巨大な塔のように襲来し、キラの一切をのみこんでいく。再来する胃酸の気持ち悪さに、洗面台に縋り付くも膝が抜け、台についた腕で上半身をなんとか支えた。
「僕は、なんで…」
だというのに、なぜ生きていて、生き残っているんだ?
命を奪い、守ると決めたのに守れなかった僕がなぜのうのうと今の今も、生を維持しているのだ?




*



――――プラント、某市


ラクスは一人、カナーバからの出馬召喚要請に対して、自室として与えられたとある官吏用のホテルの一部屋で正式に断り状をしたためていた。
とはいえ戦後処理段階で機体奪取、ザフト謀反などの裁判を受け停戦に尽力、及びプラントに対する核脅威を退けた事やザラ議長の暴挙を未然に防いだことーーその功績にクライン派かザラ政権の暴走を食い止めた、として三隻同盟にたいして無罪との判決が下された。
またこの同盟の名称は臨時名称であり公式文章などには残されていない半ば寄り集め軍にも関わらず結束が揺るがなかったのは各艦のリーダー同士の疎通や共通意志が合致していたからであろう。三隻同盟についてはカナーバが地球軍へ取り計らわれた動き(推測ではあるが、クライン派内部で隠密に動きがあったと聞く。カナーバは沈黙しているが)により結果、プラントが処置権を委任されることとなった。壊滅的な打撃により地球軍の余裕がなかったことも功を奏したのであろう。奇跡に近い展開ではあったが、今後の身の安全まで保障されているのかは、些か疑問が残る点ではある。
だが、終わったのだ。なんであれ、ひとまずは。

ラクスは息をついて、筆を収める。紙切れ一枚に装飾された煌びやかな縁取りを施された用紙最後にあしらわれた金印はクライン家正式文章であることを示す証。
「お綺麗ですこと…」
ラクスは父の役職、クライン派の力を父の助力となるよう活動した歌姫としての時分に権力を誇示してやるのも政治の一手法であり、必要性も周囲の状況を注意深く観察していればおのずと見えてくる明白な現実で、身に染みてラクスは実感していたことではあったけれども、みえすいたその手のものを嫌う自分がよもや自ら使うことになろうとは。まったく皮肉なものだ、とラクスは思った。
「……さて、どうしましょうか私」
これで一応のクライン派代表としての仕事は終了した。
これからは新しい時代が必要であろう。ラクス・クラインはシーゲルを助けるものであり象徴であるべきだ。
シーゲルは死んだ。
であるから、歌姫も生を終えたのだ。では、自分はこれからどう生きていくべきだろうか?
ラクスは自身の身の程を弁えていた。
どれほど政的才能があろうと人心掌握に長けようと、当人は気が付いてもいないだろうが生粋のカリスマが自然と彼女を、大戦時如実に露呈したことであるが先導者として人が見識しようとも、プラントに対し謀反を働いたことには変わりない。罪状も無罪とはいえまぬがれうるものでもない。民衆が望むクラインとして、新クライン派としての発足にもラクスはでしゃばりすぎぬよう裏で動き、最低限の手助けは行ったつもりだ。
「私、これからどうして歩いていきましょうか」
彼女は途方にくれたように、いや実際途方にくれていたのだ。何も考えられず、無表情ながらも指先は強張って先ほどから凍傷のように冷え固まってしまっている。
もう光も、道しるべも、歌う意味すら失ってしまったというのに。
彼女は歌は元より好んで歌ってはいたが、公の場にでるつもりなど毛頭なかった。歌など、いつでも気兼ねなく歌えるからこそ「歌」たりえるのだ。彼女はそう思っていたし、今でもそう確信している。
だからデビューの誘いがきた際も、議長である父の存在がなければその気にもならなかったであろうが、生憎父は、やさしい権力者であった。幼いラクスは少しでも大好きな父の助けになろうと決め、父の傍で行事で、ことあるごとに歌い続けて、そして事実、ラクスはクライン派の象徴となった。
しかしクライン派の長たる父は逃亡中にその存在を失い、運良く生き延びた私は――――いや後にダコスタから聞いた話によればより危険性の低い活動を選りすぐり、愛娘を生かせたのだと―――――どちらにせよ、ラクスは生き残ってしまった。運命は皮肉にも彼女と父を引き離す算段を立てていたらしい。
「…お父様。もう一度会えると、おっしゃったのに」
顔色一つ変えぬ能面のような顔のままラクスは強張った手のひらに、なんとか片割れのシルバーリングを握りこんだ。彼女が現在所持しているのは少し小さめの、母親のエンゲージリングである。父親、シーゲルのものは……とそこまで思い当たって、キラから返却されていなかったことを思い出した。エターナルへとストライクルージュでカガリ、アスランにより収容されたキラは意識が朦朧としており、すぐに医務室へと担ぎ込まれた。その際の騒動以降、ラクスはラクスで戦後処理に終われており、彼と面会できたのはたった一度、数週間前の話である。会話と言っても互いにどこか空虚さを滲ませた物で、寒々しいものであったように記憶している……が実はラクスはあまりこの面会のことを記憶していなかった。
普段周囲の心情を敏感に察知し、気配りを計る彼女ではあるが彼女自身、勘付いていないところであまりにも自身の余裕がなかったのである。
それは初めての経験であった。自分のことしか考えられなくなる恐怖は、この後自覚に至った際にラクスを恐怖に陥れるのであるがこの時点ではラクスは、少なくとも表面上は平静を保持していた。不安に足をすくわれようとするところで、彼女の気丈さと頑固さ、そして頑なな心が堪え、孤独の前にも必死に忍んでいたのである。誰もが彼女を「ラクス様」と敬愛の眼差しを向け、孤高に押し上げ、結局彼らに悪気がなくとも孤独へと追い込んでしまうのだ。
肩を並べる物ももはや存在せず、しかし彼女が孤高の階段を駆け下りることももはや、情勢が許さなくなっていたし彼女自身、責任感がそれを許諾しない。
「返していただいたほうが、寂しくないかしら…お母様」
ペアリングというだけあり、片割れだけ娘が大事にしていたのでは父があまりにも可哀想で、不平等のようにも思える。
役目は全うされたのだ。
「本当に、どうしましょう…」
誰に宛てるでもない自嘲気味の呟きは、もはやこの世で彼女以外知りようもなかった。
一人きり。まさしくラクスの世界だった父は死に、無垢な少女は外界に放り出された。展望していた未来は絶たれ、本当は父が執るべきであった課題も終えてしまった。歌姫としてのラクス・クラインももはや存在意義を失った。歌姫は父のためにあった。存在は父と同義であり、しかし父は死んだ。
もう歌を歌うこともないだろう。ラクスの歌は、真実平和を願い歌われていたものではあったけれど、だが父がいなければ彼女は披露する気もおきなかったであろう。父のためであった、父の。
けれどいまや還りたかった場所も、帰るべき場所も霧の中へと沈んでしまった。
母親もとうに死んだ。
「……どうしましょうか。私はこれから」
手元にある封書をサファイアの瞳が虚ろに眺め、そこで何かが見つけられるだろうかとラクスは微塵も信じぬ心であったというのに、不可思議に微笑をたたえていた。
もう指針となりうる対象も、どこにもいない。世界は守られたが、彼女の世界はもはや崩壊していた。
プラントにはもう一刻たりとも滞在していたくはない、恐い、ここは恐い。凍えるように寒い。父がいないのだ、なぜ私がここにいるのだ。理由がないではないか。歌姫でもなんでもない自分が、なにをしている。もはや役目は終わったのだ、父すら守れなかった非力な娘が、父の愛した地でのうのうと生き恥をさらすか。
早く、早くオーブへ下らねば。ラクスは唇を噛む。



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