「おはようございます、キラ。今日はいいお天気ですわね」
彼女は昨夜の涙は、まるで嘘であったかのように朗らかに微笑んだラクスは、全くいつもどおりに寝起きのキラを出迎えた。
いつもどおりの、何も変わらぬ優しい笑顔。
だがキラは妙な胸騒ぎに襲われ、不安になる。
彼女を知るものならば…ラクス・クラインに微笑みかけられて猜疑心を抱く者など、稀有であろう。
儚げな見目麗しい女性に丁寧に挨拶を、笑顔つきで賜るのだ。必ずしもいい気分、とまではできないだろうが、少なくとも悪い気はしないだろう。
キラとてそう思う。何を不安がっているのかと。昨夜、真の意味で思いを通じ合わせたというのに…。

「あらあら。キラ、寝癖が」
くすくすと笑いながら、ラクスが髪を直してくれる手を横目に、キラは思考の迷宮に囚われたまま生返事をした。
ラクスがラクスでないように感じる。
あの、瞳さえ見なければ今も素直に喜んでいられたろうに。
一体この手は誰の手で、僕は誰を今まで頼りにし、癒されていたのだろうか?


「キラ、何ぼーっとしてるの。早く座りなさい。ご飯、冷めちゃうわよ」
カリダの声に促され、キラは食卓の低位置…母の正面、ラクスの隣の席に腰掛ける。
考え込んだままパンを手に取ると、焼きたての熱気が掌の皮膚を焼いた。
「あちっ!」
我に返ると思わず掴んでいた手を離し、じりじりと痛む皮膚をもう片方の手で覆う。
放り出されたパンは、音を立てて元あった皿の上に落下した。
正面でコーヒーを飲んでいるカリダが、呆れた様子で口元を緩ませた。
「焼きたてなんだから、そんなにしっかり握ったら熱いに決まってるでしょー」
「うん…」
「あんたは、ラクスさんの落ち着きをもらいなさい。ね、ラクスさん」
「いいえ、そんな…」
キラはカリダの隣に座り、朝食をとっている、『ラクス』とよばれた女性に目をやった。

ラクス・クライン。
そう、彼女は『ラクス』。今の彼女は『ラクス』。
よく見知っている、共に戦場を駆けた戦友でもある。

昨夜キラが懺悔し、流した涙をぬぐってくれた女性は、正に世間一般に呼ばれるラクス・クラインそのものであった。

一緒に生きていこうという僕の言葉に、頷いてくれ、顔上げた心細そうな女性は、
昨夜初めて出会った、キラが『今まで知らなかった』ラクス・クラインは、一人孤独の中で偶像に追いつこうと必死に生きる女性であった。

けれども。
キラはパンをほおばりつつ思い返す。

僕が、昨夜見つけた、月夜の中、とても小さな背中を震わせていたあの女性は、確かにラクスだ。
でも―――――。
ひっかかるのは、キラに抱きしめられ、泣いていた彼女がふっと顔を上げたときに見せたあの一瞬の瞳。
キラをこれほどまでに困惑させているのは、『あの時』の瞳に、説明しがたい微かな違和感と共に、不信を、よりにもよって
ラクスに、抱いたからである。
同志であり、戦友でもあり、…大切な人でもある女性に、今更猜疑心を持つ理由などないではないか。
持とうとしても、信頼関係を強固に築いた今に、そうそう容易く抱けるものではない。
そのはずだ。不信を感じるにしても、
普段ならば思慕や葛藤をワンテンポ挟むものではないのか。
しかし、キラはあの時。あの双眸を見とめた時、確かに抱いてしまったのだ。



キラにとって、昨夜初めてみせた『はず』のラクスの本音というものは、驚きはしたが予測を大きく逸脱するものではなかった。
しかし、本音のあとの彼女は理解できなかった。
ああ、そうであったならばまだ自分にも理解できるという
――――人が知らず知らず身勝手に固定化する他人の受容範疇を、キラも持っている。
キラはまだ気付かなかったが、彼が許せる範疇を、ラクスはあの時、飛び越えてしまったのだ。

本当はラクスに抱いた不信を明確に、言葉に表すことができる。
だが、キラはそうはしなかった。目をそらし、あやふやな、不思議な猜疑心として感情が処理した。
彼女が僕に対して、あんな感情を示すはずがない、と、キラは思っていたかったからだ。
そうすれば、キラは刹那でも幸福でいられる。









ちるちる・みちる/前編










一緒に生きていこう。

――――…はい。




言葉、というのは嘘をつけるようにできている。
そうしなければ守れないものも確かにあるからだ。
嘘は優しさでもあり、苦しみでもあり、人の涙でもある。










捨てられた子猫のように頼りのないラクスを抱きしめて、凍空の下。

思いを通わせ、心静かに高揚するキラは
「ラクス」
キラは星空から目を落とし、幼女に還ったかのような少女の脆い『はず』の体を見遣った、

と同時に、息が止まる。

そこには先ほどの狼狽した子供の姿ではなく、夜闇そのものを凝縮させたような少女が居た。
今にキラを射抜かんばかりに張詰めた弦の如く闇に震える憎悪を宿す眼差しがじっとりと見つめていた。


誰だ、この人は。

キラは驚愕に目を瞠り、肩をこわばらせた。
夜闇の中、感情のない人形のような造形美をたたえた彼女は、月光の雨を浴びて青白く光っている。
乾燥した寒風が僅かに身を離れた二人の間に吹き込むと、灰がかった桜色の髪が線引きのように開いた空間を裂いた。

が、ラクスの双眸は、一瞬のうちによくキラが見知った穏やかなものへと切り替わり、
先ほど『知ったはずの』弱弱しいラクスは、柔らかなそうな赤い唇で美声を紡いだ。
「一緒に…生きていきましょうね。キラ…」
「………ぅん…」
答えたキラであったが、抱擁を交わす前のような心からのものではなかった。
愛しい人を抱きしめていたはずなのに、知らない人間を抱きしめていたかのような気持ち悪さ…違和感が脳裏を占領する。

秀麗な容貌をくしゃりと崩して涙ぐんでいたラクスは、自らの目端を拭って、言った。
「では…もう部屋に戻って眠りますね。おやすみなさい」
ラクスは甘い時は終わりとばかりに、胸板を突き放して距離を戻し、キラの腕から『逃れ』た。
少なくとも『別人を抱いていた』と感じたキラには、そう思われた。
「体が冷えてしまいますから、キラもお早めにベッドに戻ってくださいね。風邪をひいたら大変ですから」
キラを気遣ったラクスは、羽織っていたカーディガンをキラの肩にかける。
返答をまたず、その場を後にする彼女の遠ざかっていく後姿を、黙って見送ることしかできなかった。
呆然としたまま、言葉もなかった。

何もかも晒し、ようやく身をキラに預けることを許してくれたはずのラクスに疑念を抱いたことからの、罪悪感
であったのだろうか。それとも衝撃であったのか、しばらく膝をついたまま、停止していた。
キラはふと綺麗なはずの月を見上げると、不愉快な脱力感に襲われる。

―――何も彼女にしてやれなかった。
キラは慌てて、素直に抱いた言葉を打ち消した。

いや―――違う、これでようやく、ラクスと本当に想いが通じたんだ。
ラクスが一瞬、別人のように感じたのだって、思い過ごしだ、気のせいだ。
だって笑っていた。幸せそうに涙をみせて、腕の中で確かに華奢な身体が震えていたじゃないか。

「一緒に生きていこう」
弱い彼女はやや消極的ながらも頷いてくれた。だから大丈夫。


キラは自分に対して表面上そこで打ち切ったが、深層心理では不安感がうごめいていた。

そのとき頷いてくれたのは、『知らなかった』ラクス・クラインだった。
だがそれはおおよそラクス・クラインのイメージの範疇に収まるもので、『強いが、実は心弱い少女』というのはまるで考え及ばないものではない。
英雄像としては、ありきたりといってもよい。
だがキラが受け入れられる範囲の、『知らなかった』ラクス・クラインの後に姿を見せたのは、受け入れられない彼女だった。
だからキラは忘れようとしていた。
でなければ、キラが今まで築き上げてきたと盲信していた構図―――――
彼が抱く悲しみ、苦しみ、恐ろしい悪夢、失い続けた過去の痛みを彼女に与え、
それを真綿にくるんで抱きしめてもらうことで、彼女から与え続けてもらうことで、地盤は不安定ながらもそれなりに保っていた
と、彼が認識していた関係――――を、根底から矛盾で崩壊させてしまいかねなかった。
ラクスはキラを好きだとは言わなかった。
キラもラクスを好きだとは言わなかった。
けれど、好意を交わす間柄であったと思っていた。

だが、果たして真実そうであったのだろうか?
一方的な主観がよがり続けた果ての結末が、歪みが、あの眼差しを生んだのではないのか。
ラクスはキラを憎んでいるの『かも』しれない。
そして、自分に対して憎悪を抱くラクスを目の当たりにしてしまったのかもしれないキラは、そんな彼女を受け止められなかった。
気のせいではないか、と感じたならば、疑問に思ったのならば、彼女に触れて確かめることもできたはずだ。
けれどキラはそれはラクスではないと、彼女からのシグナルを錯覚と片付けて無視し、取り合わず避け、何もしなかった。





キラは何事もなかったかのように笑っているラクスの声を耳でとらえつつ、朝食を口にしている。
これでいいのだ、これが日常だと思い込みたくて、昨夜の違和感はなんだろうと、本人に確かめたい衝動を完璧に封じて不安がってみせている。
彼の腹奥底に沈殿する鬱陶しさだけが、昨夜の真実を知りたがっていた。
ただ、頭も身体もラクスに肯定されることに恐れを抱き、拒絶していたたので、何もせず今も微温湯に甘んじている。
それもまた選択の一つである。

キラは知らぬうちに道を決めた。






中編につづく
ごめんなさい