僕は逃げ続けていた。現実も、夢でさえも尚、浅ましい生をまっとうする絶望を抱えて。 どこまでも赤く、赤く、淀んだ生ぬるさに身を浸し足掻けば足掻くほど沼に沈んでいく体に纏わりつくのは、人々の無残な遺体と柘榴よりも色濃い粘り気のある血の海。 涙なき悲哀を上げて、僕はそれでも振り払うことはできず次第に諦めもつき、引かれるままに身を委ねた。キラは安堵を感じていた。それで終われるなら、綺麗事を述べずに、これで安らぎが臨めるならば。首がぬかるみを許容し、鼻腔にも死の匂いが届く。これでようやく眠れるものも喜ぶ者も、大勢居るだろう。だが、ふいに浮上の意志を内面に感じる。なぜだ、僕は死を迷わない。 だというのになぜ躊躇する。楽になれるのだ、楽になりたいもう疲れた。 キラの頬を、赤の淀みから伸びる青い爪が怨嗟の傷を掻く。引き裂かれる皮膚からは柔らかな血が滴り、貪欲に死人の手は嬉々と指を増やし、キラの生を啜る。ほら、いいじゃないかそれでいいじゃないか。 「急がなくても、僕は抵抗しないよ」 安らかな笑みをのせた瞬間、しかし他者の思念が過ぎる。強烈な光と、脆い涙がキラの微々に裂傷を癒した。僕に今尚哀れみをかける者が存在するのか、数多の死を築き上げた僕に。 息を呑む。なぜか、彼は恐る恐る、収縮する鼓動を凍らせて目をやった。彼の低まる頭上に佇む人影が映れば、他愛なく彼の表情は安らぎから脅えへと変貌する。僕は死ねない。急速に構築された確信を抱き、沼を死に物狂いで這い上がった。だが誘惑は骨を蝕み、千々に身を切られるような苦痛に化け物じみた絶叫を吼える。支配されるは、恐怖。 「…………っ!」 上半身を跳ね上げ、そこで目が醒めた。キラの、はあ、はあと荒い息が室内に漏れる。 玉の汗が額に不愉快に浮かび、寝巻きは全体に汗を吸い空気に冷やされた中途半端な気持ち悪さが伝っていく。 「また……あの夢……」 僕が死に損ねる夢だ。無意識下、思考に舌打ちする。それが僕の願いだというのか、バカな言い逃れを。倦怠感に苛まれながら、キラは汗をシャツで無造作に拭い、カーテン越しの夜闇が発する月へ目線を投げれば、ふと甘い囀りが聞こえる。女性の声がか細く硝子越しに震う。 …ラクス? ベッドから降り立ったキラはおぼつかない足取りで壁伝いに導きのまま、足を運ぶ。 ぺたぺたと床に粘つく素足に眉を顰めながら、気分の悪さを振り払った。汚泥が血管を流動する心地にいよいよ害されながら進んでいくと、徐々に歌が近づけば彼はベランダへと辿り付いた。 やはり心休まる、鈴の音色。平和への願いを一人佇み、天へ手を差し伸べ謳う少女の姿を闇に見つけた。 「ラクス…」 刺すような月光に浮きだされた彼女の淡い髪は風に弄られ、溶けそうな白肌を包む薄い夜着に目を止め、キラは手身近な羽織りを手にとってベランダへ続く大窓を開いた。寒さを忘れているのだろう、とはいえ風邪をひかせてはいけない。彼女へと近づいていく。鳥肌が立ちそうな寒風に触れ、キラもほうと白い息をついた。続くか細く、だが燦々と輝く美しい音色に何かが弛緩して温もりが溢れるのを感じていると、しかしぶつりと途切れる。キラが中断された安らぎを惜しむよう、不愉快気に顔をあげると、ラクスは唐突に操り糸が切れたように膝を折りがくんと座り込んでやがて別人のように表情を崩して顔を覆う。キラが声をかけようと口を開いたところで、弱々しい嘆きが空気を撫でた。 「………父様……とお、さまぁ……かあさま………かあさま………」 雨に打たれた子猫のように肩を震わせて、ラクスは抑えることなく嗚咽を晒している。 明るさに瞬いた雫が木目に墜落する。キラは動揺した。普段微笑むばかり、気遣うばかりの慈愛に満ち溢れた彼女が、まさか。だが記憶が蘇る。涙を零して縋りつく少女。いつの間にか、あまりにラクスが幸福そうであったばかりに都合よく忘れていたのだ。僕は。 愕然とするキラに、続いて更なる衝撃が襲った。眩暈が、した。 「どうして……私を置いていったのですか………?」 瞬間、キラは急いた。全身の皮膚という皮膚を掻き毟りたくなるほどの焦燥。 「―――――――ラクス!」 それは自身でも驚くほどの絶叫と呼ぶに相応しい制止。キラの呼びかけに、先ほどまで縮こまっていた背中が一つ大きく、びくりと震えた。反応はそれだけだった。 表情までは窺えない。なぜなら彼女が感情を俯かせているからであり、それは拒絶である。 ありありと空気に滲んだ境界を、強情に傲慢に、残酷に突きはなした彼女は何事もなく服についた埃を払って立ち上がり、 「………どうされましたか?キラ」 綺麗な笑顔をはえて彼の前へと立ち返った。キラは拍子、意味もなく笑みが浮かぶ。 それはどうしようもない焦燥に駆られた、ラクスへの落胆であり怒りである涙である。 滲む雫を腕に散らし、彼女の願いを否定すべく、けれど目を背けていた僕には権利が無い、そう噛み締めながらもそれでもと喉奥から搾り出すのだ。 「――――――ごめん。ごめん…ラクス…」 「キラ…」 「ごめんね。ごめん」 「キラ?どうされましたか?」 口にしてどうする、だが彼女の異変を気が付かない素振りを、残酷に続けていたのは間違いなく僕であり、見逃していたのも僕である。だからこそ、今を逃避する訳にはいかないのだ。自分本位な、卑怯すぎる我儘から去来するものとしても。 「一人にして、ごめん」 君は、きっと今も何も察しない振りをしながら、さりげなく「いい風ですわね」と呟く度に彼女は孤独の寒さに凍えていて。君が笑って真昼僕の病室で花を生けながらも夜、一人孤独を深遠を覗く夜闇に紛らわせ、涙を流し慟哭する少女はまたきっと、翌朝になれば何事もなかったかのように雫を陽に浸して、寂しさを逃がしてしまうのだろう。過去に浸り、卑怯な僕を更に遠く、彼方へと追いやりながら。 「どうされましたか?」 「ラクス………」 泣き出した僕に君は、悲しそうに涙を拭っては乾かぬ頬の理由を知りながら進んで徒労を受け入れた。なんでもないようにもう、僕は君に笑ってほしくはなくて、悲しいのは僕ではないのにぽろぽろ涙を零す僕に、君はまた天使を繕って慈愛を湛える。そんな笑顔が痛々しくて、無我夢中で彼女を抱き寄せながら、僕が彼女にこうして触れるのは初めてなのかもしれないと頭の片隅で思った。 触れてみたいと願ってはいたのに。病室でも、言葉を紡ぐラクスの唇、しなやかな体のラインに欲を感じなかった訳ではないが、無意識下に僕は、そうして、そうして募る思いも無に解かして彼女の強情さに甘えていたのだ。孤独の筵に縋る彼女の願いは、きっと自責と自らの死への望みなのだろうけれど、僕の身勝手さがラクスの願いすら許さない。散々寄りかかりながら僕は尚寄りかかるけれども、今度は僕も君の重さを感じよう。逃げずに、迷わずに。守られるだけでなく守ろう。君に恋する僕が、君のありのままを。 「僕が、もう一人にしない。傍にいる」 震えながらラクスは、鼻声で「どうしましたか」と尚呟いたので僕はどうもしないよ、でもこれから夜月に歌うときは僕も呼んでね、君一人では月も寂しいから、と言った。 拭ってくれる度、些細に接触する指の体温が愛しかった。 日溜りの中、隣に居たラクス、真昼に子供たちの洗濯物を抱えて物干し台の前に立つ少女の後姿が儚いものとなってしまうと考えだけで僕は涙もなく途方に暮れる。 恋だと、遅すぎる自覚をきたして情けなく鼻を啜りながら、一緒に生きていこうとラクスの耳朶を擽ると、刹那演技を殺すことを了承した彼女が頷くと、月夜の中でキラを見上げた少女は唯の女の顔をしていた。ラクスの普段とはかけ離れた、捨てられた子猫みたいな表情に、僕はもうごめんと口を開くことはできなかった。僕は夜風に冷えた剥き出しの肩を引き寄せて少しでも君に恵まれた優しさが返りますように、と白肌を温めた。 死なないで生きていてくれて、傍にいてくれて、ありがとう。 それは僕のためだと心の底から自惚れて、死を恋しがる娘を、黒空に青白く輝いて心配する彼女の父親にキラはこれからは僕がいますと胸中で誓いをたてる。眩しい彼女を刺すばかりであった死んだような冴月が、少しだけラクスを優しく照らしているように、なぜか無性に思えて。 /さようなら >まーた何かの長編の切れ端です。ひそひそデスクトップだけの長編設定ですが、くらーいです戦後直後から運命までの補完話。(DNAは関係なし)携帯で暇な時にぼちぼち書いているので公開…別にしなさそうです。本か? ともあれ単体でお読みください。あ、戦後、キラはしばし入院していましたよという設定です。 |