西洋の木製椅子の上で、折った膝に顔を埋めて考える。ブラインドは閉められ、室内は夜闇を淘汰する蛍光灯に割合明るさを保持しているが、部屋主の恋人である少女から発せられる空気は、蹴散らすように負の気配に彩られている。風呂から出立ての張りのある火照った卵肌は赤々と彩られ、今もまだ熱が冷めやらない。
「あなたはなんと言うお名前なのですか?」
キラが連れ帰ってきた愛らしい子猫は、金瞳をぱちぱちとさせてはジャンプしている。
獲物はラクスの桃色の長い髪。届かずぐるぐると悔しげに喉を鳴らしていて、今はまだ毛先に到達してもいないが…なんとなく彼女は肝を冷やして、今にも飛び掛ってきそうな小さな爪から避難させるために下ろした髪を首横にまとめ、拘束なく流している。
床から高さも数十センチあるというのに、ぴょんぴょんと諦めずに愛らしく飛び跳ねるグレーの毛玉は、獲物を狙いを定めて恋人と同じ色の紫の瞳をキラキラ輝かせている。
シャンプーの甘い花蜜の香りにもつられているとも知らず、いつまで触りたくてたまらない可愛い子猫と睨めっこをしていなければならないのだろうかと困窮し、キラの大きいワイシャツ一枚を羽織ったのみの姿で手の届く範囲にあるベッド上のチクタクと音を刻む腕時計を手にとると恨めしげに短針を見つめ嘆息する。
「キラはお帰りが遅いのですねー今日は。いけない子」
字面は強気そうではあるが、彼女は浮かない表情を浮かべていると、にゃ、と子猫が鳴いた。
まるで『元気だして』とでも言いたげにじたばたと地団駄を踏んでいる。
ラクスは長い睫毛を瞬いて、くすりと微笑む。
「そうですわね…いくらお帰りが遅いからといって、文句ばかり言ってはいけませんわね?」
寂しさが多少忘れかけたところで、背にしていた扉から灯りが漏れた。丸まっていた腰を伸ばしたラクス。
されどいけないと思いつつ、やはり面白くない感情に駆られて再び膝を胸にだきこんで不貞腐れる。
ノブを回転する金属音時点でこれで知れない方が可笑しいというくらいに動揺を如実に発露したくせに、あくまでも無視を決め込む少女に、キラは苦笑した。
「ラクス」
とりあえず名前を読んでみると、ワイシャツ越しに浮かぶ背骨が上向きにしなる。
けれど微動だになんかしてませんよと頑なにはねつけるラクスに、キラはファーコートを脱いで椅子にかけると、いつもの黒服で足音を忍ばせながら近づいていく。
数キロ離れているのではない、たった一部屋。彼の部屋中で扉から彼女が上で膝を折る椅子までの距離などたかがしれている。
いくら注意を払ったとて、よほどの難聴でない限りは嫌でも耳に入るだろうに、湿った薄桃は、彼女らしくもない、結いのない髪を左肩にまとめて流しているもうなじにまだ乾燥しきれぬ水滴がついている。
よく水分を拭い去れていないらしく、左肩部分の生地がじわりと張り付いて肌色を透かしていた。
髪が小刻みに揺れているのは、まだ温度も低い季節だというのに湯上りのまま子猫とじゃれついていたからだきっと。ぷるぷると震えている。キラは、嘆息した。これから彼女をなだめるにしろ、病気にでもなられたら得策ではない。
「風邪引くよ?上がったらちゃんと服着ない、と…」
小さな背中を大きく腕を広げて抱きしめてみたが、返るのはつんとつれない言葉。
「…キラが悪いんですから。早めに帰ると、おっしゃっていたではありませんか」
「オーブ側から頼まれた書類を渡しに言ったら、アスランと話し込んじゃったんだよ」
ラクスが呟いた、「…アスランと?」という声音は低く、キラは面食らった後にぷっとふきだした。
「妬かないでよ!アスランだよ?」
「や、妬いてなんかいません!ただアスランに話し掛けられたら、待ちくたびれている私の存在など忘れてしまうのでしょうかと怒っているだけです!」
…それが妬いてるっていうんじゃないかな。
口をついて出そうになる本音を慌てて閉じ、まじまじと拗ねる彼女の横顔を見つめていると、無性にある種の感情がこみ上げてくる。さすがに気恥ずかしいらしく頬を紅潮させて、堂々とのたまった手前顔を反らすにも気まずいらしく、宿敵でも睨むように今だ椅子下でジャンピングしている子猫の肉球に指でタッチさせては、子猫が不服そうににゃー!と吠える。
ラクスはああどうして私はキラに対してだけは冷静でいられないのだろうと早々に後悔させられつつも、ピンクの小さな肉球は気持ちが良くて、微妙に行き詰まった心が蕩かされている。子猫と美少女の戯れは傍から見る分にはほのぼのとして丁度良いのやもしれないが。変な気分に飲まれぬように堪えながら、キラは首筋に鼻を掠める。
「石鹸の匂い。まだ出たばっか?僕のシャツ着るにしても、新しいの出したってよかったのに」
彼女が纏っているのは、出かけ間際にキラが慌ててベッドに放置していったワイシャツだ。
国家元首であるカガリと会うには、弟とはいえそれなりに礼服の着用が奨励されるらしいからなと言い放った渋面の姉からよこされたものだった。おそらくはユウナという人物にでも刺されたのだろう。

「だって…」
ラクスはぼそぼそと腕のシャツ生地をつまんで、ぼやいた。
「キラの匂いがするんですもの……その、だからあなたが悪いんです」
キラはしばし瞠目すると、やがて堪える表情が海面に浮上してくる。
ラクスは横目ながら気がつき、心配そうに窺うような目線を投げてくるアイスブルーの瞳はおまけに潤んでいて、
「…ラクス。かわいいっ!」
言うなり顔を横向きさせ、そのまま唇を塞いで反論も封じてしまう。無理な体勢を要求されたラクスは首が痛い。そのまま彼女の頬にまで追尾の手が回り、固定するつもりなのだと直感で悟ったラクスは誘惑を振り切り、キラの顔を思いっきり押しのけた。二人の赤らんだ唇からは銀の糸がつうと伝い、キラは口端を親指で拭って舐め取り、にっこり笑う。
「ごめんね」
「あなたは、なにをっ」
痛かった?といいながら凝りもせず再びラクスを抱きしめる。拍子に折っていたラクスの足が床に着地し、間一髪で振り下ろされた踵から子猫が逃げ出した。ふーっと尻尾を立てて抗議するも、高地で繰り広げられるやり取りには黙殺された。キラは石鹸の香り匂いだつ首筋をなぞり、鎖骨の窪みあたりにはだけたワイシャツ襟のボタンを一つはずしにかかると、さっとラクスがキラの手の甲をつまむ。伸びる皮膚に比例してキラの顔が愉快だか苦痛にだかみるみる歪んでいく。
「なんですかこの癖の悪い手は」
「イタイイタイ!………こらラクス…大人しく…」
腕を易々と片手で纏め上げ、キラが更に下へ指を下ろしていこうとしたところで、
「ぃったっ!」
足首に激痛が走る。キラは顔を顰めて足元に目を遣ると、初めて小さな存在に気がついて
「あ」
声を上げた。足首についた爪痕からは微量、出血している。
「この猫………いたの?君」
ラクスがもがき、そろそろ荒くなっている息にそろりと慎重に力を緩めながらも拘束は崩さぬまま、首根っこの毛皮をむんずと掴む。にゃーにゃーとじたばた空を掻く手足は癇に障ることがあったらしく爪が出ている。キラは困惑気味に語りかける。泣き声はやむことはない。
「うーん、可愛いんだけど。ちょっと今取り込み中になりそうで忙しいから」
「キラ!!」
紫水晶を細めると、一気にラクスの胸元へと指を下ろした。
埋める柔らかさは心地がよく、返る弾力に飄々としていた彼の肌も赤みがさしはじめる。
「柔らかくって気持ちいいよ?」
「私は別にっ」
「うーそ。こんなになってるのに?」
「んっ…。ちょ、キラ。誤魔化さないでぇ…ぅ、くだ、さ…っい」
「ここが?」
「やっ」
会話にならぬ細切れの言葉が続く間も、子猫はキラの片手に首を掴かまれたままあちらへと遠ざけられている。ラクスのか細い悲鳴が上がり、いよいよ身体に力が入らなくなり椅子から落ちそうになったところで、キラはラクスの腰に腕を回すと傍にあった彼のベッドに優しく横にさせる。既に反抗心も疲れ果てたらしく、もはや意味をなしていないワイシャツを腕にひっかけてラクスは息をあげている。
「ちょっと待ってて」
愛しそうにラクスの頬にキスを落とすと、悠々とキラは子猫を抱きなおして扉まで赴いた。
一旦密室をを開放すると、続く廊下に牙をむく子猫を着地させて告げる。ついでに手探りで壁に備え付けられている蛍光灯の切りかえを落として、部屋を闇へと帰することもした。
「ごめんね。2時間くらいしたら開けるから、それまで他の部屋で自由にしてて」
女性を陥落させる甘ったるい微笑みを残し、にゃーという子猫の糾弾にちゃっかり無視をくれて、嬉々としてキラは部屋へと舞い戻っていった。
結局2時間など目にもないほど刻限を過ぎた頃、けだるそうに皺の寄ったシャツを羽織ったキラが頭を掻きながら出てきたところで子猫に鉢合わせてしまい、今度は指を鋭い爪で引っかかれた。それでも気分は良かったらしく怒るでもなく彼は、「可愛かったよ。ラクス」と惚けた顔で言い放った。 歴戦の勇者であるからこそ可能な、それは麗しい笑顔で。





/夜と虎子





>キララクモエーですモエー