狂おしさは紙一重の世界。
あたかもナイフの切先を喉笛に突きつけられているようなピアノ線の上に爪先立ちしているような、そんな心地のいい危うさで。それは。






love







傍らから穏やかな寝息が鼓膜を擽る。
ラクスは秒針を刻むアンティーク時計の鼓動が違和感から静寂に溶け込んでいくのを静かに、そして改めて実感していた。
時が過ぎるということを。
柔らかな純白の布に頬を埋めて、彼女は長い。
数年前よりも少しだけ伸びて、気のせいだろうか、少しだけ匂いの異なる髪が重みに波打つ枕にたゆたっているのをじっと見つめる。
薄絹のカーテンからは月灯りが差し込み、交通渋滞とも無縁な街灯もない自然ありのままの光が瞳を焼いて、なぜだかあまりの他愛なさに泣きたくなる。
けれど、此処に居ると湧かない実感。
宙に浮きあがるような夢の中か、それとも現実か。いつもいつだって、私は一人ではないのかと誰に疑われるでもないのに無性に存在が希薄に思える。
私には何があるだろうか。
誰に言うでもない、ただほんの数秒だけ考え込んでしまうことがある。
そうすれば急激に肌寒さがラクスを苛み、何かに縋らずにはいられなくなる。
か細い腕が空を掻き、やがて隣で胸を上下させ眠る彼に体温を分けて与えてもらうように身を擦り寄らせる。
それは圧倒的な安堵をも享受させ、しかし逆に。

「だから」
怖い。一人ではない。確かなこと。
故に恐怖するのだ。喪失を。
「人は無限ではないから。人は永遠ではないから」
手に入れれば失う時が来る。
どれだけ詭弁を並べて立ててもどれだけ美しい薔薇で彩ろうとも、古来から変わらぬ真実。
ただ鮮明な、そして同時に残酷な。
胸を裂くような拒絶と絶望の腕が容易く嘲笑う瞬間が堪らなく愛しく、辛い。
どうしてだろうか。
貴方はこんなにも、
「傍にいるのに」
手を伸ばして、僅かな戸惑いを笑い飛ばして、息を詰めてラクスはそっと彼を起さぬように手を持ち上げ、手を重ねて彼女の白い頬を包みこませた。
愚かしい、今更なことだ。もう何年も彼に触れているという事実があるのに、だというのに安心できない。

「心は移りゆくものだから」
瞼を閉じて穏やかに眠るキラは綺麗。
長い睫毛も、線の細い顔も、骨ばった無骨で大好きな手のひら。
こうして二人でいて、キラの体温に包み込まれて、頬にかかってくる茶色い髪越しに見える天井は一人で見上げるものとは世界の色彩までが違ってくる。
桃色の髪への移り香は彼の匂い。年月を繰り返すほどに日増しに増す、私への残痕。

「……貴方が大好き」
静寂の中に含まれるノイズに紛れて消えそうなほどか細い、けれど確かな熱を孕んだ告白に、もう一人の私が問い掛けてくる。
「本当に?」「本当だよ」「本当に?」
永久に解明できないロジックは多分私が土に還るまで何万回でも繰り返されるだろう自答は、容易く『好き』とは括り出せない複雑な感情をもたらせる。
その内に間違いなく含まれる独占欲は、日増しに膨らんで膨らんでもはや手の付けようもない。
離したくない。このあたたかな彼を。
愛して愛して、どうして私は彼でなくてはいけないのだろうかと疑念を抱かせるほどに深くゆったりと、時には憎らしく程で。
愛してやまない。キラという存在を。
「離しません。絶対に」
チリチリと燻る火種が胸奥で煙を上げる感覚を覚えながら、ラクスは彼の唇に軽く爪で掻く。
男女共通して、体付きはこんなにも違うというのに唇だけは同じように柔らかった。
微笑をたたえると、寝息を立てるキラに隣から上体を伸ばして覆い被さるような恰好で、愛しげに唇をそっと重ねる。
寝息がかかって少しくすぐったい、はずだったのが逆に唇を奪われ、ラクスはしばし呼吸ができなくなる。
「……んっ」
優しいようで容赦なく息を奪い尽くされ、同様で鼻で息をすることを忘れて酸欠か頭が朦朧としかけてきた頃に、
「ぷは」
呑気に開放した。
「おはよう」
横たわったままぱっちり目だけを開いて平然と笑う彼に、所業を知られたせいか顔を赤らめて、「まだ夜ですよ」と視線をそらした。さすがに気恥ずかしくて直視できる勇気はない。
しかしキラは相乗して尚更嬉しいのか、
「可愛い」
と漏らして、言い返す間もなくラクスをますますうろたえさせる。
「お、起きていたのですか」
だとすれば随分悪趣味だなと思う。
途中からね、とやはりしれっと付け加えると、様子の可笑しかったラクスには気が付いていたのだろう。

「僕もラクスが大好きだよ?」
彼女の頬を挟みうちにしてそらした視線をこちらと見合わせる。
「……ごめんなさい?がいいかしら」
彼の言葉に取り合わない気落ちしたような声音に失笑して、キラは大きな手のひらをぽんとラクスの頭上に置いた。
「ううん、お構いなく。大歓迎だよ」
気難しい子猫でも懐柔するようにキラはよしよしと頭をくしゃくしゃ撫でる。
瞬間鋭い瞳で彼に一瞥くれて何か非難めいたことを言おうと口を開いたが、結局言葉は宙に浮いてどこかへ旅立ってしまった。
なんともなしな居心地の悪さ………十中八九正面の男の気の抜けた笑顔に毒気を抜かれたのだろうが、認めるのも腹が立つのでそのまま黙ったまま俯いてしまう。
髪がかき混ぜられ、力も入れていないので為されるがままラクスの首はふらふら揺れる。
なんだかやたら情けなくてラクスはどうしたものかと干したばかりのお日様の匂いのする真っ白なシーツに目をやって、私は何をしているのでしょうかと途方に暮れていると、
「ね、僕も離さないよ?」
無邪気な口調で流されて抱きしめられて広がる彼の匂いに酔いながら胸に顔を埋めて、鼻腔一杯にすうと吸い込んだ。
どうせならば匂いも体も声も全て交じり合ってしまえば不安感が襲うことも無いのに、とぼそりと漏らすと、それは困るなあとキラは微笑んで、
「二人だからこそこうやって抱きしめたりできるしね」
体柔らかいし、と続けたキラがやたら邪だったのでラクスは頬を抓ってキラを泣かせた。
孤独よ一時さようなら、と手を振った。





fin.